2016年1月3日日曜日

写真のおじちゃん



僕の母には、弟が居たそうです。
母の実家に行くと、仏壇に飾られた写真の中に、一枚だけまだ幼い少年の写真があるのですが、それが母の弟だと知ったのは、僕が随分大きくなってからのことでした。
生きていれば僕の叔父にあたるその人を、僕は「写真のおじちゃん」と教わってきました。


写真のおじちゃんがどうして「写真のおじちゃん」になってしまったのか。
つまり、どうして若くして命を落としてしまったのかを詳しく聞くことが出来たのは、実は今から数年前のことでした。
母方の祖母が体調を崩して入院してしまったときに、ふと母からこんな話を聞いたのです。

「ばぁちゃんは、息子が亡くなった時に着ていた服を、今も大事にしまってある。自分が死んだときには、それも一緒に燃やして欲しいとずっと言ってきたんだよ。」と。
そのときです。
当時何があったのかを初めて聞くことになったのでした。


その頃、母と弟はちょうど夏休みを迎えていました。
地区の皆で海に海水浴へでかけたのだそうです。
祖母は一人家で留守番をしていました。

子供たちにとって、海は夏休みの醍醐味でしょう。
みんなが思いっきりその日一日楽しみました。
青い海はどこまでも広く、遠くには船が小さく浮かんでいます。
そんな情景が、聞いている僕の頭にも鮮やかに浮かんできました。
賑やかな子供たちの声まで聞こえて来るようです。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰る時が近付いてきました。
母は、近くで泳いでいたはずの弟の姿が見えないことに気が付きました。

引率役の父兄たち、そして海の家の人たちも皆総動員で弟を探したそうです。

そして、立ち入ってはいけない遊泳禁止の岩場の底で息絶えている弟の姿を見つけたのだそうです。

母は、自分の弟の遺体が海から引き上げられる様子を見たのです。

祖母は、元気に朝出かけていったはずの息子を、遺体とういう形で迎えることになったのです。

その時の様子は、とてもじゃありませんが聞けませんでした。
そんなことは、聞かなくとも分かります。

ふくよかでいつも威勢がよく、笑い声が大きい祖母。
その祖母が受けた衝撃、そして母が背負った悲しみ。
祖父の怒りや喪失感。

それを言葉に表すことはとても出来ません。



夏がすぎて秋が来た時、農家だった祖父は稲刈りのために田んぼへ向かいました。
そこに、一列だけ不恰好に並んだ稲の列を見ました。
それは、息子が植えた稲たちでした。

それを見たとき、祖父はその場で泣き崩れたそうです。

春に生きていた子が秋には居ない。

その事実に、きっと祖父はずっと耐えてきたのでしょう。

一家の大黒柱として、家族を支える立場として、息子を失った悲しみを心の奥に隠して我慢してきたはずなのです。

しかし、息子が生きてきた軌跡を思いがけないところに見てしまったその時の祖父が、涙をこらえることが出来なかったということ。

それが、僕の胸にも痛いほどに刺さりました。

そんな祖父は、僕が生まれてすぐに癌でこの世を去りました。
ですから、僕には祖父と叔父の記憶と言うものがないのです。

家族の中で頼るべき存在、愛すべき存在を早いうちに二人も亡くした祖母。
今の明るく強い祖母がどう乗り越えてきたのか。

それを聞くことは、なぜだかいけないことのような気がして今でも聞くことが出来ません。

気が強い祖母のことが、小さいときはすごく苦手でした。
きちんとしなければ怒られる、そんな気持ちでいつもピリピリしていたものです。

一度は、あまりにも祖母の家に居るのが嫌で、具合がわるくなってしまったことさえありました。

ですが、そんな祖母も年々小さくなり、いつの間にか僕のほうが口でも負けないようになってしましました。
そのため、祖母が入院したときはまさかこのまま…。

という気持ちが胸をよぎりましたし、そんな時に聞いた母の弟の事実は僕をなんとも言えない気持ちにさせたのでした。


海で亡くなった息子が、きっと最期に迎えに来てくれる。
その時にまた再会できることを楽しみにしている祖母。

けれども、僕はまだ祖母に、息子のところに行ってほしくはありませんでした。
祖母と、亡くなった叔父には申し訳ないけれど、まだ再会するのは早すぎる、と、ずっと祈っていました。

なんとか峠を越した祖母。
しばらく入院した後、無事に家に戻ってくることができました。

僕は仏壇に座り、亡くなった叔父と祖父にお礼を言いました。
そして、母にそっくりの顔で笑う「写真のおじちゃん」にお願いしました。

「まだまだ寂しいかもしれないけれど、お母さんを迎えに来ないでね。」と。
なんとなく、「写真のおじちゃん」が、「仕方ないなぁ。」と笑ったような気がしました。


必ずくるであろう最期の瞬間。

祖母がその時を迎えるとき、きっと「写真のおじちゃん」があの頃のままの姿で笑いながら迎えにくることでしょう。
死ぬことが怖くない、あの子に会えるんだからむしろ楽しみだ、と笑う祖母。

でも、出来ることなら、その祖母の笑顔をあともう少このまま見ていたいと願うのでした。


祖父のおにぎり




私の両親は共働きで、父親は会社の重役と言うこともあり、小さい頃から単身赴任や出張で忙しく飛び回っていました。
母親は製造関係の会社に長く勤めており、そこでのリーダーを任されるなどで残業も多く、そんな両親に代わって私の面倒を見てくれたのが祖父母でした。


私には弟が一人おり、家に帰ると決まって祖父がおやつ代わりに作ってくれる大きな大きな「おにぎり」を一緒に食べるのが楽しみのひとつでした。
祖父が作るおにぎりには具は入っておらず、シンプルにごま塩をまぶして海苔で巻いた素朴なものでしたが、そのおにぎりがとても美味しいのです。

母が作るおにぎりとはまた違い、なぜ祖父の作るおにぎりはこんなにおいしいんだろう?と、いつも不思議に思っていました。

ある時など、母が作ったおにぎりをひとくち食べて、「ばぁちゃんのおにぎりの方がおいしい」と言ってしまい、母を激怒させてしまったこともありました。
子供の素直さというものは、時に残酷なものなのだということが、今になって身に染みて分かるような気がします。


私たちが家に帰ると、いつも祖父は畑で野菜を育てるのに精を出していました。
夏は一緒にトマトに水をやり、とうもろこしを採って茹でたてをガブリ。

外で食べる夏野菜の美味しいこと美味しいこと。
縁側で弟と二人並んで野菜を食べている姿を、微笑みながら見ている祖父のあの陽だまりのような笑顔は、当時の私たちをどれだけ安心させてくれたことでしょう。
忙しい両親に代わり、私たちを育ててくれた祖父母でした。


幼馴染が遊びに来ると、決まって祖父のおにぎりを食べたがりました。
祖父のおにぎりの美味しさは折り紙つきでしたので、私の自慢でもありました。


しかし、私にもいわゆる「思春期」という時期がやってきて、だんだん祖父の優しさが疎ましさに変わっていってしまったのです。
なんにでも口をだしてくるところ、部屋にノックをしないではいってくるところ、曲がった腰…。

とにかく、些細なことが目に付くようになりました。
中でも私が一番嫌がったのが、例の「おにぎり」でした。

年齢的にダイエットという言葉にも敏感になり、また、交友関係が広がったことで他の家で出てくるお菓子の美味しさに気が付いてしまったのです。


ある日、知人が家に遊びに来た時のことです。
当然ながら、祖父はおにぎりを私たちに作って持ってきてくれたのですが、それがとても恥ずかしく思えてしまった私。
「そんなものいらない!!恥ずかしいからばぁちゃんは来ないで!!」と、部屋から強引に押し出してしまったのです。

あとから「なんてひどいことを言ってしまったのだろう」と後悔しましたが、どうしても謝ることが出来ません。
その時の祖父の顔が、なんども頭に浮かんできました。

祖父がその時作ってくれたおにぎりは、弟が何も知らずに喜んで食べたということが唯一の救いのように思えました。


それからというもの、祖父はおにぎりを作らなくなってしまいました。
変わりにわざわざスーパーまで行って、色々なお菓子を買ってきては黙って部屋の机の上に置いていってくれるようになったのです。
私はますます謝るきっかけをなくしてしまい、そのまま時は流れていきました。


そんなある日、祖父が脳梗塞で倒れてしまったのです。
幸い、命は助かったのですが、右半身に後遺症が残ってしまいました。
リハビリのおかげでどうにか杖を使って歩けるまで回復したのですが、右手はうまく使えないようになってしまった祖父。
すっかり元気をなくしてしまい、それまで頑張っていた畑仕事も花植えも、一切やらなくなってしまいました。

時々寂しそうに畑を眺め、畑は主に祖父が管理することになりました。


私は、どうにかしてまた以前のように朗らかな祖父に戻って欲しいと願いました。
どうしたら祖父のやる気を再び引き出すことが出来るのか、自分なりに考えました。
そして、ある時、思い切って祖父にこう言ったのです。
「また、ばぁちゃんのおにぎりが食べたい」と。

すると、その日から少しずつではありますが、祖父がまた台所に立つ姿を見るようになったのです。
もちろん、隣には母の姿もあります。

祖父の病気がきっかけでパートになった母は、毎日早く帰宅しては祖父と一緒に台所に立っていました。
そしてとうとう、また祖父のおにぎりを口にすることが出来る日がやってきたのです。


そのおにぎりは、いびつで、以前のようにしっかりとは握られていないようでした。

動く左手でご飯を丸めるように掴み、その手の中で少しずつ形を丸く形成していったのだと、隣で見守っていた母が教えてくれました。

味付けは同じくシンプルなごま塩です。
懐かしいそのおにぎりをひとくち食べたとき、今までの祖父とのたくさんの思い出が一気に蘇ってくるような想いがしました。
涙ぐみながら、「じぃちゃんのおにぎりは、やっぱりおいしいなぁ」と、ようやく口に出して言うことができた私。

祖父は、また優しそうにニコリと笑ってくれました。



娘のお弁当



誰にでも好き・嫌い、得意・不得意があると思います。
私は料理の才能がまるでないようで、はっきり言ってしまえば苦手と言うよりも「嫌い」と言っても良いのではないでしょうか。
掃除、洗濯もあまり好きではありませんし、「家事全般」において不得意だと言えるでしょう。

それでも結婚してなんとかそれなりに出来るようにはなりました。
やはり女に生まれたからには主人の健康はきちんと守ってあげたいものですし、まさか主人に家事も仕事も押し付けるというのでは立場がありません。
自分なりに出来る料理を色々工夫してやれるように苦心してきたつもりです。


そして月日は流れ、私にもかわいい女の子が生まれました。
初めての妊娠と出産を経験して生まれたその子は目に入れても痛くないくらいかわいい存在で、家族三人で慎ましくも幸せに日々を送っていました。


娘もすくすくと成長し、幼稚園では仲の良いお友達や優しい先生に囲まれて毎日楽しく過ごしていました。
そんなある日、娘が珍しく暗い顔つきで帰ってきたのです。
何があったのか聞いても答えてくれず、それでも夕方になる頃にはすっかりいつもの娘に戻っていたのであまり気にもとめませんでした。

しかし、それからも忘れた頃にまた暗い顔で帰ってくるようになったのです。
例のごとく聞いても答えてくれず、時間が経つと普通にテレビを見て笑っている娘。
それでも何度かそんなことがあったので、私も心配になってきました。
そこで、幼稚園の連絡ノートで担任の先生に「娘に最近変わった様子はなかったか」聞いてみることにしたのです。


翌日、普段と変わらない様子で幼稚園から帰ってきた娘。
気にしすぎだったかな…?と思いながら連絡ノートを見てみました。
昨日は月に一度のお弁当の日だったのですが、娘は自分のお弁当を隠すようにして食べていたようだったと書かれてありました。


それを見てハッとしました。
娘が暗い顔つきで帰ってきていたのは、そういえばいつもお弁当の日だったのです。
きっとお弁当に何か理由があるのだということに気が付いた私は娘にそれとなく聞いてみることにしました。


娘は始め、何も答えようとはしませんでした。
「なんでもない」の一点張り。
それでもゆっくり話して聞かせてくれた答えはこうでした。

周りのお友達のお弁当はみんなカラフルで色々なキャラクターになっていたりして、見ているだけで楽しそうなお弁当なのに、自分のお弁当はまるで「お父さんのお弁当」みたいで恥ずかしいのだと。
だけど、それを私に言ったら私が傷ついてしまうだろうと思い、じっと我慢していたようなのです。
お友達がお弁当を見せ合ったり交換しあったりしているのが羨ましいけれど、そんなことを言ったらわがままだろうと感じていたと娘。

口に出して言ってしまったことで娘は自分を責めたのでしょう。
大粒の涙をぽろぽろこぼしながら「お母さんごめんなさい」と謝ってきました。





そんな思いをさせてしまっていたことに、私も心から娘に悪い事をしたと思いました。
そして、その日から私の「お弁当の練習」が始まったのです。

本屋さんから「かわいいキャラ弁」の本を数冊購入、また、ネットでも色々研究しながら毎日お弁当の中身を練習しました。

卵焼きは切り方次第でハートや星に出来ます。
野菜もただ茹でただけ、炒めただけではなく、海苔で飾り付けしたりチーズを貼り付けたりすることで動物やキャラクターに変身です。

どれも細かい作業が多く、お弁当作りと言うよりは工作のようなものだと感じました。
それでも娘がもう幼稚園のお弁当の日に肩身の狭い思いをすることがないようにと毎日練習を続けました。

そしてまた、お弁当の日がやってきました。
前日遅くまでかかって下ごしらえをし、朝早くから調理したお弁当。

今まで練習を繰り返してみましたが、やはり自分のセンスのなさと言うものは完全に払拭することはできませんでした。

それでも、目に鮮やかなお弁当に仕上げることができました。
それを持たせて娘を幼稚園に送りだしたのです。

これで今日は少しでも楽しいお弁当の時間が過ごせるようにと祈りながら。

そして、夕方。

幼稚園から帰ってきた娘は、なんだか照れくさそうな顔をしながら、それでも笑顔で帰宅しました。
私のところへ駆け寄り、かばんから誇らしそうに空になったお弁当箱を出してくれた娘。

今日のお弁当はどうだった?と聞いてみると、今までで一番楽しいお弁当の時間だった、と、満面の笑顔で答えてくれたのです。


それからは娘の「お弁当リクエスト」が聞かれるようになり、なんだか辛口の評価までつけてくれるようになりました。
考えてみると、娘の為にお弁当を作ってあげられる期間と言うものは、思っている以上に短いのかも知れません。

それまでの時間、下手な料理でも愛情込めて一生懸命に作ってあげたいな、と思っています。
なんとなく、すこしずつお料理が好きになってきたかな…?そんな風にも思えるのでした。