2013年10月10日木曜日

『アルコールの匂いがする彼の日記』



幼馴染の彼は病気と戦っていました。
彼の入院費を稼ぐために働く両親の代わりに、彼女は必死で彼を支え、彼の孤独な病院生活に色を取り戻そうと頑張りました。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


わたしには幼馴染の男の子がいました。
小学校・中学校まで病気の為殆んど普通の学校に行けず、いつも院内学級で1人でいるせいか、人付き合いが苦手でわたし以外友達は居ませんでした。
彼の体調がよく外泊許可中は、いつもわたしが普通の学校へ送り迎いをして、彼の体調の変化に対応するようになっていました。



普通は親がやることですが、家が隣同士で、母親の職場が同じで家族ぐるみの付き合いをしていたので、彼の母親はわたしに絶対的な信頼を寄せていたんだと思います。(彼の入院費を稼ぐ為に働いて、彼自身をおろそかにしなければならないと言う、矛盾した悲しい現実もありました)。



わたしはそんな信頼に答えるように幼いながらの正義感を持っていて、学校で茶化される事がありましたが、それは自分に与えられた責任が果たせていると言う確認でしかありませんでした。



彼は人工透析以外普通の学生生活を送ろうと、懸命で体調さえよければ雨の日や雪が降るような寒い時でも、中学生とは思えない華奢な肩を震わせて学校に行きました。



そんな彼のがんばりで、高校進学の出席日数は普通の学校と院内学級を合わせて何とか間に合って (実際は足りなかったが意欲有りで認められた) わたしが合格した高校の2次募集を受験して、補欠ながら何とか合格して、いつもふさぎがちな彼の表情は輝いていていました。
これは高校合格だけでは無く、 体調が安定してきて外泊許可が長くなったのもあると思います。
彼にとって今全てが動き始めました。



彼の高校合格の日、両家合同でちょっとした合格パーティーが行われて、彼の母親がわたしの手を泣きながら握って何度も何度もお礼をして、わたしは苦笑いするしかなく彼も恥ずかしそうに笑っていました。



そこまで感謝されているのは嬉しかったですが微妙な違和感がありました。



彼が寝付いた後話を聞いたら、彼の病気は内臓、とりわけ腎臓が殆んど機能しておらず、医者からは10歳まで生きられないと言われていたと言うのです。
腎臓に障害があるのは、話や人工透析中の様子を見てきたから既に知っていたが寿命の事は知りませんでした。



入学までの約1ヶ月間毎日のように2人で過ごして、ごく普通の生活 ごく普通の時間を過ごしていて、いっしょにテレビを見ていても彼は幸せそうでした。
考えてみればこんな時間の過ごし方は数ヶ月前ではとても考えられない、彼にとっては病室で1人で過ごすのが普通なのですから。



それに気が付いた日わたしは泣きました。
 彼にとっての日常が病院で1人きりで非日常が家、しかも、家に帰っても入院費を稼ぐ為に家族は誰も居ないのです。



この頃からわたしは責任から義務へ彼を絶対に守ると決意したと思います。



しかしそんな決意も脆くも崩れ去りました。
いつも通りいっしょにテレビを見てトランプで遊んで、お昼に病院から宅配されたごはんを食べていたら、彼は嘔吐し気絶してしまったのです。
救急車が来るまで洋服や口の周りを拭いて、ソファーに移動させようと抱きかかえましたが、驚愕しました。
軽い軽すぎる、まるで内蔵の無い人間を抱きかかえているようでした。
結局彼はそのまま入院し、高校は休学しました。



彼の日常に戻っていきます。



今までの入院中の面会は4日に1回程度で人工透析のある日は行きませんでした。
でも、あのころは毎日のように彼の病室を訪ねて、人工透析後の虚脱感で彼が寝ていても、面会時間いっぱいまで本を読んだり勉強をして過ごしていました。
透析が無い日は学校の話・友達の話・テレビの話どうでもいい話を、面会時間ぎりぎりまで話して、本が欲しいと言えば直ぐ買ってきて、大きめの鏡が欲しいと言えば1番高い物を持って行き、彼の日常が無邪気な笑顔が充実するように努めました。



そんなある日、日曜日に面会に行こうとしたら 彼の両親からいっしょに行こうと電話があり、彼の要望のクシを購入して行きました。
クシの入った可愛らしい袋はちょっと恥ずかしかったので、彼のお母さんに持ってもらい病院に行きました。
彼の両親は担当医に挨拶をすると言い、わたしは先に彼の病室に歩き出しました。
しかし、クシの事を思い出し彼の両親が入っていきました。
部屋に行き様子を伺おうと少し開いているドアから覗き込むと 上気した感じで担当医と話していて、その内容が聞き取れました。



「あと、半年の命です」



中に居た看護婦さんが泣き声に気が付いて、わたしを中に入れて椅子に座らせてくれました。
担当医から告げられる言葉は全てが虚しく、何を喋っていたのか余り覚えていません。


覚えているのは
「半年の命、先天性腎機能障害・移植は合う人が居ない。人工透析の副作用・入院中の吐血。人間として迎えさせる」
担当医の話が終わり彼の母はショックが大きく、とても今日は会えないと言い、クシの入った袋を渡して帰っていきました。



わたしも今自分の顔がどんな表情をしているか分かるから、 彼に絶対悟られたくないから、数時間気持ちを落ち着けてから彼の病室に向かった。



病室に入ると彼は無邪気な満面の笑みで迎えてくれて、 クシに気が付くと更に笑顔を輝かせていました。
室内は夕焼けのわたしンジで溢れていて、わたしは死をイメージしてしまい目が熱くなるのを感じて、クシを渡し棚の上にある鏡を渡して窓際に移動して顔を背けながら話しました。



流石にずっと背を向けて喋ると悟られそうで無理して振り向くと、彼はクシで髪形を7・3にしたり9・1にしたり、髪で遊ぶのに夢中で少しほっとしました。
彼の枕元を見ると参考書が置いてあり、色々書き込みがされていて、聞くと「時間いっぱいあるし、復学したらテストでトップを取るんだ」と照れくさそうに笑っていました。



それから少し喋ると直ぐに面会時間になり、帰りました。



夕焼けが町を包む、彼の黄昏





「時間いっぱいあるし・・・」



家に帰ると彼の両親がわたしの両親に病状を話していました。
彼の両親はとても落ち着いていて、わたしの両親が泣きじゃくっていて逆に励まされていました。
わたしはムカついて冷蔵庫から牛乳を取り出し、一気に飲み干してそのまま寝ました。



次の日から彼の母は勤務日数を減らして1日中病院に居る日が多くなり、わたしがムカついていたことは馬鹿だと思いました。
元々医者から10歳までしか生きられないと聞かされていた彼の両親は、とうの昔に覚悟を決めていたんだろうと。



ですが、両親が見舞いに来る日が多すぎて、流石に悟られてしまうと担当医から注意を受けていました。
今日も面会に行くと笑顔で迎えてくれました。学校の話・テレビの話・仕入れた面白い話をひと通り話して、久しぶりに勉強を教えようと大量の本がある棚から彼のノートと参考書を取り出して、何処まで進めたのかノートを見ました。



しかしそこには勉強の跡は無く、日記が書かれていました。
その後直ぐに彼に取り上げられて、内容は余り覚えていませんが1日分の日記が1ページ程使って書かれていました。



「まだ、見ちゃ駄目」



日記を書くと考えがまとまって、気分がいいらしいのです。
その事を褒めてあげていると、急に彼の顔が苦痛に歪んで胸を押さえました。
何かまずい事を言ったのかと思いましたが、それは違い、急いでナースコールを押して看護婦さんを呼びました。
直ぐに安定しましたが看護婦さんに呼ばれ別室で話を聞いた。
腎臓障害が心臓に影響しはじめて不整脈が起こりやすい事、もう時間が無い事 人間として最後を迎えさせる事。



わたしは忘れてはいなかったが、あえて考えないようにしていたのかもしれないです。彼の時間が迫っていることを。



その後面会謝絶になり、2日程逢えなませんでしたが直ぐに逢えるようになりました。



わたしはいつも通り毎日学校帰りに面会に行きました。
彼の無邪気な笑顔を作る為に、ノックをすると返事があり、今日も大丈夫だ。
ドアを開けると黄昏に染まった病室でわたしに背を向けて、夕焼けに染まった町を眺めていました。
その横に静かに座りわたしも黙って見ていました、窓に反射している彼の顔を、彼もそれに気が付いたのか照れくさそうに笑って話し出した。



「いつも来てくれてありがとう。もう大丈夫だから」



ひっかかる事がありましたが、気にするなと言って、窓に反射している彼の顔を見つめました。
ふと、部屋の中を見渡すと本棚にあった大量の本が、数冊を残して空っぽになっていました。
聞くと、片付ける時、お母さんが可愛そうだと笑って言いました。
彼はいつもの無邪気な笑顔では無く、悟った様なやさしい笑顔でした。



不意に目が熱くなり、トイレに行って来ると言い訳してその場を離れようとすると、彼の母親と入れ違いになり、わたしは顔を隠すように軽く会釈をして出て行きました。
病室から彼のビックリしたような声が聞こえました。
どうやら外泊許可が下りたようで、どんな顔で喜んでいるのか見たかったのですが、既に逢えるような顔ではありませんでした。



・日記を書くと考えがまとまって、気分がいいらしい。
・「いつも来てくれてありがとう。もう大丈夫だから」
・整理された本棚 悟った様なやさしい笑顔。



彼は既に知っている、もう時間が無いことを、、。



最後の外泊許可で帰ってきた日は両家で食事会が開かれました。
食事制限が厳しいながらも母親たちが、がんばって作った料理が食卓に並びます。
誰かがちょっとでも予感させる事を言えば、その場で食卓は凍りつきます。
そんな雰囲気で、会話は交わされていました。


普通の話でも大げさに笑い、リアクションも大げさでした。
わたしも嫌いではない胡麻和えを嫌いと言い、話を盛り上げようとがんばりました。
彼を見ると、両親たちに向けて、また無邪気な笑顔で笑っていました。
両親たちとわたしに向ける笑顔を使い分けて。



問題なく食事会は終わり、帰ろうとすると彼に呼び止められお礼を言われました。


「付き合ってくれてありがとう。」


意味は分かっています。



7月に余命を宣告されて、今は12月。
最後の外泊許可を貰った彼に会いに行く。



病室で見る笑顔より輝いていたのがすぐにわかりました。
外泊許可を貰っても、免疫力の落ちた彼を人ごみに連れて行く訳にはいけないので、近くの森林公園に行くことが多かったです。



森林公園と言っても中にはちょっとした博物館や美術館があるのです。
16歳の普通の男の子なら退屈で悪態をつかれそうですが、何も知らない彼はニコニコして楽しそうにしていました。
今日の彼はよく喋りました。
幼稚園の頃の話・2人で行った映画の話・体調の安定していた頃の通学中の話。
わたしは何となく覚えていましたが、彼は細かく詳細に覚えていて、驚かせる。
不意に黙った彼を見ると、 白すぎる頬を赤らめ目に涙を貯めて、わたしに感情を爆発させました。



「まだ死にたくない」



わたしはたまらずゾッとするほど華奢な彼を抱きしめました。
何て言えばいいのか、馬鹿なわたしには分からずただ抱きしめてキスをしました。



「ありがとう」



長期外泊許可が終わった今日、彼は帰っていきます。
その後、彼の体調は緊張の糸が切れたように日に日に状態が悪くなる一方でした。



今彼の覚醒時間は短い、あらゆる激痛が彼を襲い、それを和らげる為にモルヒネが使われているのです。
ちょっとした風邪でも肺炎に進行し後が無い、 感染症・合併症・言葉で表すのは簡単ですがが、現実は想像を絶します。



念入りに消毒して黄昏さえない彼の無菌室に行きます。
彼の顔は浮腫んでやっと高校生らしい感じになっていました。
荒い息使いで額にうっすら汗が出ていて、透明なビニールのカーテンを開けて拭いてあげます。
不意に彼は目を開け笑顔にならない表情を見せまた眠りにつきました。



その日の夜、病院から電話がありました。
彼が移された病室には、今まで見たことのない親戚と無数の機械、枕元には彼の両親が立っていました。
彼は虚ろな目で来てくれた人にお礼をしてました。
モニターを見ていた医者に促された彼の両親は、わたしを枕元に手招きしました。
彼の手を握って話す、痛みは?苦しくない?寒くない?ゆっくり話しました。
彼は後で日記を見てねと言って、日記を出して穏やかな笑顔を見せました。



「俺、がんばったよな?」

「うん」



彼は早朝に亡くなりました。



アルコールのニオイがする彼の日記には色々な事が書いてありました。
わたしが話した学校の話・友達の話・テレビの話どうでもいい話。
まるで、書きもれるのを恐れている様に細かく書いてありました。
その時のわたしの表情といったらもう、、、。



2ページ程の空白あと、彼の感情がぶつけられていました。
文字にならない文字で吐血の事・胸の痛みの事、既に文字ではなかったが彼の気持ちが分かる様なきがします。
夜中の病室で1人、孤独と不安と戦っていたんでしょう。



その後何事も無かったように最後の外泊許可の日々まで書かれていました。
そして最後のページには1文だけ書かれて終わっていました。



「今日キスをした、もう怖くない・・・愛してます」




『赤ちゃんが生まれる時』



赤ちゃんを産むとき、陣痛というものがあります。
陣痛は、初産で約24時間、2人目以降で約12時間続くものらしいです。

妊婦さんの中には、この陣痛がとても苦しいので
「産む側は大変、赤ちゃんは生まれてくる側でいいなぁ」
と言う方もいるらしいです。

しかし、助産師さんは、これは大きな勘違いだと言います。
赤ちゃんの方が、妊婦さんの何倍も苦しいのだと。



実は、子宮は筋肉であり、これが収縮したり緩んだりするのが、陣痛の正体らしいです。

陣痛が始まり、子宮が収縮すると、赤ちゃんは首のところを、思い切り締め付けられ、へその尾からの酸素が途絶え、息ができなくなるそうです。



子宮の収縮は約1分間。
その間思い切り首を締められ、息ができない。

1分たてばまた子宮はゆるむが、また陣痛が来れば1分、息ができなくなる。
しかも陣痛の間隔はだんだん狭くなる。
この陣痛に耐えられなければ、赤ちゃんは死ぬ。



まさに命懸けです。
だからこそ、赤ちゃんは慎重なのだといいます。






実は、陣痛がおこるためには、陣痛をおこすホルモンが必要らしいのですが、このホルモンを出しているのは、お母さんではなく、なんと赤ちゃん自身なのです。

赤ちゃんはとても賢く、自分自身で自分が、今陣痛に耐えられる体かを判断しています。

そして、一番いいタイミングで、自分の生まれてくる日を選んでいます。



また、急に激しい陣痛を起こせば命が危いので、最初は陣痛を起こすホルモンを少ししか出さず、様子を見てホルモンの量を調整するらしいです。

赤ちゃんの中には、予定日を過ぎても、なかなか生まれてこない赤ちゃんもいます。
途中で陣痛を止める赤ちゃんもいます。



そういう赤ちゃんを
「うちの子はノンビリしてる」
なんていうお母さんもいるけど、そのとき赤ちゃんは必死なんだといいます。

生まれて来ないのは、赤ちゃんが
「今の体では陣痛に耐えられず死んでしまう」
と判断しているからだそうです。



赤ちゃんはみんな、自分で判断して、自分の意志で生まれてきます。

「生まれたくて生まれたんじゃない」なんて人はいないのです。




2013年10月9日水曜日

『おばあちゃんのプロポーズ』



わたしのおばあちゃんは、某有名大学出身でとても頭も賢く、運動神経も抜群で、小さい頃はよく勉強やスポーツなど、色々とおばあちゃんに教えてもらっていました。

そんなおばあちゃんが大好きで尊敬していたし、誇りでもありました。

ですが、今はおばあちゃんに勉強を教えてもらっていません。



正確に言えば、教えてもらう事ができなくなってしまいました。

わたしが高校2年生の頃、おばあちゃんは痴呆症になってしまったのです。

今では、わたしの事も、実の娘のわたしの母親も分からなくなってしまって、いつもわたしたちに、「初めまして」とあいさつをしてきます。



唯一、旦那さんであるわたしのおじいちゃんの事は分かっているみたいだったけど、ここ最近になって、おじいちゃんの事も分からなくなってしまいました。

ですが、おじいちゃんは毎日笑顔で、懸命におばあちゃんの世話をしていました。





今年の年初め、家族みんなで集まって家でごはんを食べようとなり、久々に家族全員で集まることになりました。



家族の誰一人分からなくなってしまって、とても緊張をしているおばあちゃんに、おじいちゃんが笑顔で家族のみんなを紹介していきました。

すると、いきなり、おばあちゃんは真剣な顔をして、おじいちゃんに向かってこう話しをしたのです。



「あなたは、本当に素敵な方ですね。

いつも素敵な笑顔で、わたしに笑いかけてきてくれる・・・

あなたが笑ってくれたら、わたしはとても幸せな気持ちになれます。

もし、独り身なら、わたしと結婚してくれませんか?」



家族全員の前でのプロポーズでした。



おばあちゃんの逆プロポーズに、涙をぽろぽろこぼしながら、おじいちゃんは笑顔で、「はい」と答えました。




『人生のいろいろ』



交通事故をきっかけに、お母さんが鬱になってしまいました。
頼れる者もない状況の中で、受験を控えた中学3年生の娘さんが、辛い日々の様子やお母さんへの想いを語りました。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


文へたくそだけどよかったら読んでください



わたしが中3の時の話



元々母さんは精神病を患ってました。
でもわたしが生まれる何年も前に、ほとんど完治してたらしくて、わたしは全然病気の心配何かしてませんでした。



そんなある日、母さんが事故にあいました。
どうやら曲がり角のところで車に跳ねられたらしいです。
幸い命に別状はなかったのですが、右腕と右足がほとんど動かなくなり、さらに動くと首にも激痛が走るらしかったです。
元々活発だった母は、動いたり外に出ることができなくなって、段々うつ状態になっていきました。



そして、治っていたはずの病魔がだんだんと動き始めました。



そん時は地獄のようでした。
わたしが今まで見たこと無い母さんが現れるんです。



毎日毎日、その日によって性格が変わるんです。
暴れだしたり、かと思えば泣きだしたり、わたしに暴言をはいたり…帰ってきたら母さんが首に縄巻いてるんです…

包丁持ってたり、わたしに包丁つきつけて
「一緒に死のうか…よしえちゃん…」
って言ったこともありました。



ホントに辛かったです。



父は父で仕事が忙しくて、ほとんど海外にいました。
頼れる親戚も兄弟もいませんでした。おまけにわたしは受験でした。
いろんな不安で心が押しつぶされそうになりました。





これはさすがに家族には手に負えないってなって、精神病院に入院することになりました。
入院先は閉鎖病棟。
面会に行った時、閉鎖病棟の隅っこで小さくなってわたしの名前を泣きながら叫んでる母さん見たときはホントに泣きそうになりました。



すこしだけど良くなって、母さんが家に戻ってきました。
叫んだりはしなくなったけど、こんどは記憶の感覚がごちゃまぜになりました。
中3のわたしが2歳になったり、8歳になったり、時には死んだ母さんの弟になったり…



それでも行動的なところだけは昔のままで、歩けないのに歩こうとして転んで血を流すなんてしょっちゅうでした。
普通ならわたしがどうにかしなきゃいけないんだけど、どうしても勉強で忙しくて、見て見ぬふりしてました…



入試前日、わたしが学校から帰ってくると、母さんがいろんなところに擦り傷作って台所に横になっていました。
足もとには大きな買い物袋… どうやら買い物行って来て、そこらじゅうで転んで擦り傷作ったらしいです。



色んなとこから血出しながらサンドイッチ作ってたんです。
わたしが小さい頃一番好きだった母さんのサンドイッチ



「よしえちゃん喜ぶかな? よしえちゃん…よしえちゃん…」
って泣きながらわたしの名前呼んでました…



「明日は一緒に、お出かけしようね」とか、「明日は運動会だね」とか色々言ってました。
なぜか知らないけど明日は特別な日ってことだけは知ってんだな…
とか思いながら、



そしたら急に泣き出してこう言いました。



「よしえちゃん… お母さんはどうなっちゃうんだろ… よしえちゃん…よしえちゃん…」
ず~っとわたしの名前を呼ぶんです。 立ってるのも辛いはずなのに、泣きながら…



ホントに切なかった。



次の日、母さんのサンドイッチを持って入試に行きました。
昼飯食った後の5時間目の社会。
なんでかわかんないけど眠くなっちゃって、一問も解かずに眠っちゃっいました。



そん時見た夢はいまでも覚えてる。

わたしが母さんに抱きしめられてた夢だった。



『本当は辛かったおばあちゃん』



実家で暮らすおばあちゃんから、電話がかかってきました。
いつもは仕事で忙しくしている僕を気遣ってあまり電話をかけてきません。

たまに僕からかけても、
「しんちゃん電話代かかってまうではよ切るでな」
って言って気を使ってくれます。

そんなおばあちゃんから
久しぶりに電話がかかってきました。
「しんちゃん元気か、ちゃんとご飯たべとるか」
って。

「元気だよ、ちゃんとご飯食べとるで大丈夫」



僕の声を聞いて、
おばあちゃんの話す電話の声が震えだしました。

僕にできる事は、
「大丈夫だよ、元気だよ」って
繰り返し答える事だけでした。

そうしたら、
泣きながら話すおばあちゃんが、一言、
「母さんもねえちゃんも喋ってくれんで
ばあちゃんさみしいんやわ」
って漏らしました。



普段から会話のない家族ではありますが、
おばあちゃんがそのさみしさを
はっきりと言葉にするのを聞いたのは初めてでした。





3年前におじいちゃんが
亡くなってからはいつも家でひとり。

話し相手もいなくて、
寂しさを紛らわすかのように
いつもテレビの前に座ってました。

きっと、
寂しさがこらえきれなくなって
僕に電話をかけてきたんだと思いました。



大切な人が、
さみしい時に側にいてあげられない事が
辛かったんです。

おばあちゃんの寂しさには気づいていたのに、
おばあちゃんが僕に頼ってこない事に甘えて、
仕事を言い訳にして、
おばあちゃんの心のケアを
怠っていた自分が情けなくなりました。



「まぁ、大丈夫やろ」っていう
勝手な思い込みは
ただの自分を守る言い訳でしかなくて、
手遅れになってから、気づいた時には
取り返しがつかなくて。

そんな事にならないように、
これからもっともっと家族とのつながりを
大切にしていこうと思いました。

明日、おばあちゃんに電話をかけてみる。
「おばあちゃん、今度一緒に温泉いこう!」
って。




『医者になる決意』



高校1年の夏休み、両親から「大事な話がある。」と

居間に呼び出されました。



お父さんが癌で、もう手術では治りきらない状態であると。



暑さとショックで、頭がボーっとしてて、

変な汗が出たのを憶えています。



当時、うちは商売をしていて、借金も沢山ありました。

お父さんが死んだら、高校に通えるわけがない事は明白でした。

そしてわたしはお世辞にも優秀とはいえませんでした。

クラスでも下位5番には入ってしまう成績でした。



その夏から、お父さんは、抗がん剤治療を開始し、

入退院を繰り返していきました。

メタボ体型だったお父さんが、みるみる痩せこけていきました。



母親の話では、主治医の見立てでは、

もって1-2年だろう、という事でした。

ただ、お父さんは弱音を吐く事はありませんでした。



お父さんは

「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」

って言ってました。



仕事もやりながら、闘病生活を続けていました。



わたしといえば、目標も特になく、

高校中退が頭にチラついて勉強は進みませんでした。

ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていました。

せめてお父さんを安心させるためだったと思います。



だから、その後の成績も、

とても期待に添えるものではありませんでした。



ただ、お父さんの

「高校、大学はなんとかしてやる」

の言葉が、重かったです。



「おまえ、将来、何かやりたい事はないのか?」

高校2年の冬、痩せこけたお父さんに問いかけられました。






わたしは、期末テストで学年ビリから2番をとり、

担任からも進路について厳しい話をされていました。

言葉もないわたしに、怒ったような泣いたような顔でお父さんは言いました。




「・・・ないなら、、医者になれ! 
・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」




上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれました。

自分への情けなさとか、怒りとか、

色々混じったものが込み上げてきました。



その時、お父さんには返事を返す事はできませんでしたが、

わたしは決意しました。
それから、猛烈に我武者羅に勉強しました。



高校3年の夏、お父さんは亡くなりました。



お父さんは、闘病生活の2年間で借金を整理し、

わたしの高校の学費をなんとか工面したそうです。

お父さんのおかげで、高校卒業できました。



そしてありがたい事に、1年間の浪人生活を経て、

わたしは地方の国立大学の医学部に合格しました。



わたしは今、癌専門治療医として働いています。



お父さんは、

「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」と

母に言ってたそうです。



まだ、お父さんの癌を治す力はありませんが、日夜頑張っています。



いつか、お父さんの癌を治せるように。




『「島歌」の本当の意味』



あの有名なTHE BOOMの「島唄」は、
ボーカルの宮沢和史さんが作詞と作曲をしました。

この曲は、THE BOOMはもちろん、
90年代前半の
日本音楽シーンを代表するものとなりました。



この「島唄」の歌詞の意味を知っていますか?
単なる失恋ソングかと思っていましました。

とある事から、歌詞の意味を知って、
とにかく深い曲なんだと再評価しました。

このバンドがいまだに
カリスマ的な人気を誇る意味がわかります。
とにかく深いです。



私は、あの戦争を
美化するつもりはありませんが、
忘れてはいけない事もたくさんあると思います。
歌の力がとても深く響きましました。




『島唄』

でいごの花が咲き
風を呼び 嵐が来た

(災厄を告げるという でいごの花が咲き、
(1945.4.1)沖縄本島に米軍が上陸しました)

でいごが咲き乱れ
風を呼び 嵐が来た
繰りかへす哀しみは 島わたる 波のよう

(でいごが咲き乱れる1945.4-6月に、
 寄せ引く波の様に、殺戮は繰り返された)

ウージぬ森で あなたと出会い
ウージぬ下で 千代にさよなら

(サトウキビ畑であなたと出会い
 (ガマ)鍾乳穴の防空壕で
 君が代にいう永久の御代との別れ)

島唄よ 風にのり
鳥と共に 海を渡れ
島唄よ 風にのり 
届けておくれ わたしぬ涙

(島唄よ 風にのり
 しびとの魂(鳥)と共に 海を渡れ
 島唄よ 風にのり 
 本土に伝えておくれ、沖縄の悲哀を)

でいごの花も散り
さざ波がゆれるだけ
ささやかな幸せは うたかたぬ波の花

(でいごの花も散る1945.6.23に
 戦闘も終わり、宝より大切な命が散り、
 生き残っている者もあまりいない
 日常生活は、簡単に消え去った)





ウージぬ森で うたった友よ
ウージぬ下で 八千代ぬ別れ

(さとうきび畑で謡いあったあの人は
 防空壕の中で、戦闘によって死んだ)

島唄よ 風に乗り
鳥とともに 海を渡れ
島唄よ 風に乗り
届けておくれ 私の愛を

(沖縄の思いよ、風に乗って
 魂と共に、海を越えて
 (あの人の居るニライ・カナイ=天国へ)
 島唄よ 風に乗り
 (ニライカナイへ)届けておくれ 私の愛を)

海よ
宇宙よ
神よ
いのちよ
このまま永遠に夕凪を

(海よ
 宇宙よ
 神よ(豊穣をもたらす)
 いのちよ(何物にも代え難い命という宝よ)
 このまま永遠に夕凪(平和)を(祈る))



朝日新聞に宮沢和史さんの
コラムが掲載されていたようです。

引用させていただきます。



『島唄』は、
本当はたった一人のおばあさんに
聴いてもらいたくて作った歌です。

91年冬、
沖縄音楽にのめりこんでいたわたしは、
沖縄の『ひめゆり平和記念資料館』を初めて訪れました。

そこで『ひめゆり学徒隊』の
生き残りのおばあさんに出会い、
本土決戦を引き延ばす為の
『捨て石』とされた激しい沖縄地上戦で
大勢の住民が犠牲になった事を知りました。



捕虜になる事を恐れた
肉親同士が互いに殺し合う。

極限状況の話を聞くうちにわたしは、
そんな事実も知らずに生きてきた
無知な自分に怒りさえ覚えました。

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の
中にいるような造りになっています。

このような場所で集団自決しました
人々の事を思うと涙が止まりませんでした。



だが、その資料館から一歩外に出ると、
ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れています。

この対比を曲にして
おばあさんに聴いてもらいたいと思いました。



歌詞の中に、
ガマの中で自決しました2人を歌った部分があります。

『ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら』という下りです。

『島唄』はレとラがない沖縄音階で作られましたが、
この部分は本土で使われている音階に戻しました。



2人は本土の犠牲になったのだから。



『あなたは素晴らしいんだから』



わたしが3歳の時、父が亡くなり、
そのあとは母が女手一つでわたしを育ててくれた

仕事から帰ってきた母は疲れた顔も見せずに、
晩ごはんを作ってくれた。

晩ごはんを食べた後は内職をした。
毎晩遅くまでやっていた。



母が頑張ってくれていることは
よく分かっていた。

だけど、わたしには不満もいっぱいあった。

わたしが学校から帰ってきても
家に誰もいない。



夜は夜で母は遅くまで内職。
そんなに働いているのに、
我が家は裕福ではなかった。

遊園地にも連れて行ってもらえない。
ゲームセンターで遊ぶだけの
小遣いもくれない。



テレビが壊れた時も半年間かってもらえなかった。

わたしはいつしか母に強く当たるようになった。

「おい」とか「うるせー」とか
生意気な言葉を吐いた。

「ばばあ」と読んだこともあった。



それでも、母はこんなわたしのために
頑張って働いてくれた。

そして、いつもわたしに優しかった。

小学校6年の時、初めて運動会に来てくれた。
運動神経の鈍いわたしは、かけっこでビリだった。
悔しかった。



家に帰って母はこう言った。
「かけっこの順番なんて気にしなくていい。
あなたは素晴らしいんだから」
だけど、
わたしの悔しさはちっともおさまらなかった。

わたしは学校の勉強も苦手だった。
成績も最悪。
自分でも劣等感を感じていた。

だけど、母はテストの点や通知表を
見るたびにやっぱりこう言った。



「大丈夫。あなたは素晴らしいだから」

わたしには何の説得力も感じられなかった。
母に食ってかかったこともあった。

「何が素晴らしいんだよ。どうせわたしはダメ人間だよ」
それでも母は自信満々の笑顔で言った。



「いつか分かる時が来るよ。
あなたは素晴らしいだから」

わたしは中学2年生になったころから、
仲間たちとタバコを吸うようになった。

万引きもした。
他の学校の生徒とケンカもした。
母は何度も学校や警察に呼び出された。

いつも頭を下げて、
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」
と謝った。



ある日のこと。

わたしは校内でちょっとした事件を起こした。
母は仕事を抜けて学校にいつものように謝った。

教頭先生が言った。
「お子さんがこんなに
“悪い子”になったのはご家庭にも
原因があるのではないですか」



その瞬間、母の表情が変わった。
母は、明らかに怒った目で教頭先生を
にらみつけてきっぱりと言った。

「この子は悪い子ではありません」
その迫力に驚いた教頭先生は言葉を失った。

母は続けた。
「この子のやったことは間違っています。
親の私にも責任があります。
でも、この子は悪い子ではありません」

わたしは思い切りビンタを食らったような
そんな衝撃を受けた。



わたしはわいてくる涙を抑えるのに必死だった。
母はこんなわたしのことを本当に
素晴らしい人間だと思ってくれていたんだ…

あとで隠れてひとりで泣いた。

翌日からわたしはタバコをやめた。
万引きもやめた。
仲間たちからも抜けた。

その後、中学校を卒業したわたしは
高校に入ったが、肌に合わなくなって
中退した。





そして、仕事に就いた。
そのときも母はこう言ってくれた。
「大丈夫。あなたは素晴らしいんだから」

わたしは心に誓った。

「これからわたしが頑張って
お母さんに楽してもらうぞ」



だけど、なかなか仕事を覚えられなくて、
よく怒鳴られた。

「何度同じことを言わせるんだ!!」
「少しは頭を働かせろ!」
「あなたはホントにダメなやつだな!!」

怒鳴られるたびに落ち込んだけど、
そんなときわたしの心には母の声が聞こえてきた。



「大丈夫。あなたは素晴らしいのだから」

この言葉を何度もかみしめた。
そうすると、元気がわいてきた。

勇気もわいてきた。

「いつかきっとわたし自身の素晴らしさを
証明してお母さんに見せたい」

そう考えると、わたしはどこまでも頑張れた。



仕事を始めて半年くらい経った時のことだ。
仕事を終えて帰ろうとしていたら
社長がとんできて言った。

「お母さんが事故にあわれたそうだ。
すぐに病院に行きなさい」

病院に着いた時母の顔には
白い布がかかっていた。



わたしはわけがわからなくなって何度も
「お母さん!」
と叫びながらただただ泣き続けた。

わたしのために身を粉にして働いてくれた母。
縫い物の内職をしているときの
母の丸くなった背中を思い出した。

母は何を楽しみにして頑張って
くれてたんだろう?
これから親孝行できると思っていたのに。
これから楽させてあげられると
思っていたのに。



葬式の後で親戚から聞いた。
母が実の母ではなかったことを。

実母はわたしを産んだ時に亡くなったらしい。
母はそのことをいつか
わたしに言うつもりだったんだろう。

もしそうなったらわたしはこう伝えたかった。
「血はつながっていなくても
お母さんはわたしのお母さんだよ」



あれから月日が流れ、わたしは35歳になった。

今改めて母にメッセージを送りたい。

お母さん
わたしとは血がつながっていなかったんだね。
そんなわたしのために昼も夜も働いてくれたね。
そして、お母さんはいつも言ってくれた。

「あなたは素晴らしいんだから」

その言葉はどんなにわたしを救ってくれたか。
どんなにわたしを支えてくれたか。
あれからわたしなりに成長して、
今は結婚して子どももいるよ。



規模は小さいけど、
会社の社長になって社員たちと
楽しくやっているよ。

まだまだ未熟なわたしだけど、
わたしなりに成長してきたと思う。

その成長した姿をお母さんに見せたかったよ。

「あなたは素晴らしい」
と言ってくれたお母さん。



その言葉は間違っていなかったっていう
証拠を見せたかった。
そして、
それを見せられないことが残念でならなかった。

だけど、最近気づいたんだ。

お母さんは最初から
わたしの素晴らしさを見てくれてたんだね。



証拠なんてなくても心の目で
ちゃんと見てくれてたんだね。

だって、お母さんが
「あなたは素晴らしいんだから」
って言う時はまったく迷いがなかったから。

お母さんの顔は確信に満ちていたから。

わたしも今社員たちと接していて、
ついついその社員の悪いところばかりに
目が行ってしまうことがある。



ついつい怒鳴ってしまうこともある。
だけど、お母さんの言葉を思い出して、
心の目でその社員の素晴らしさを
見直すようにしているんだ。

そして、心を込めて言うようにしている。
「きみは素晴らしい」

おかげで、社員たちといい関係が築けて、
楽しく仕事をしているよ。



これもお母さんのおかげです。

お母さん
血はつながっていなくても、
わたしの本当のお母さん。

ありがとう。



2013年10月2日水曜日

『サイン帳の話』



「サイン帳の落とし物はないですか??」

インフォメーションセンターにひとりのお父さんが元気なく入ってきました。

落としたサイン帳の中身を聴くと、息子さんがミッキーやミニーに一生懸命に集めたサインがあともう少しでサイン帳一杯になるところだったそうです。



でも、残念ながらインフォメーションセンターには、サイン帳は届けられていませんでした。・・・・・

キャストはサイン帳の特徴を詳しく聴いて、あちこちのキャストに連絡を取ってみました。



しかし、見かけたキャストは誰一人としていませんでした。

「お客様、申し訳ございません。まだ見つからないようです。お客様はいつまで滞在されていますか??」

と伺ったところ、お父さんが言うには、2日後のお昼には帰らなければならないとのこと。・・・



「手分けして探しますので、2日後、お帰りになる前にもう一度インフォメーションセンターに立ち寄っていただけますか??」

と笑顔で声をかけたそうです。



そして、お父さんが帰られた後も、細かな部署に電話をかけて聴いてみたり、自分の足で探しにも行ったそうです。

ところが、どうしても見つけ出すことができず、約束の2日後を迎えてしまいました。


「見つけることができませんでした。申し訳ございません」

「代わりにこちらのサイン帳をお持ちください」


それは、その落としたサイン帳と全く同じサイン帳を自分で買って、いろんな部署を回って、全てのキャラクターのサインを書いてもらったものを手渡したんです。

お父さんがビックリして、喜ばれたのは言うまでもありません。



後日、ディズニーランドにこのお父さんから、一通のお手紙が届きました。

先日は「サイン帳」の件、ありがとうございました。

実は連れていた息子は脳腫瘍で、「いつ死んでしまうか分からない」…そんな状態のときでした。





息子は物心ついたときから、テレビを見ては、

「パパ、ディズニーランドに連れて行ってね」

「ディズニーランドに行こうね」

と毎日のように言っていました。



「もしかしたら、約束を果たせないかもしれない」…そんなときでした。



「どうしても息子をディズニーランドに連れていってあげたい」

と思い、命があと数日で終わってしまうかもしれないときに、無理を承知で、息子をディズニーランドへ連れて行きました。



その息子が夢にまで見ていた大切な「サイン帳」を落としてしまったのです。



あのご用意いただいたサイン帳を息子に渡すと、

「パパ、あったんだね!パパ、ありがとう!」

と言って大喜びしました。



そう言いながら息子は数日前に、息を引き取りました。



死ぬ直前まで息子はそのサイン帳を眺めては、

「パパ、ディズニーランド楽しかったね!ありがとう!また行こうね」

と言いながら、サイン帳を胸に抱えたまま、永遠の眠りにつきました。



もし、あなたがあの時、あのサイン帳を用意してくださらなかったら、息子はこんなにも安らかな眠りにつけなかったと思います。

私は息子は「ディズニーランドの星」になったと思っています。

あなたのおかげです。本当にありがとうございました。



…手紙を読んだキャストは、その場で泣き崩れたそうです。

もちろん、その男の子が亡くなった悲しみもあったと思いますが、

「あの時に精一杯のことをしておいて、本当に良かった」

という安堵の涙だったと思うんです。



2013年10月1日火曜日

『未送信のメール』



私が彼と最初に出会ったのは会社の懇談会でした。


ふとしたことから一緒に遊ぶようになり、付き合いはじめました。




私はもともと打たれ弱い性格だったので、彼にグチってしまうことが 多かったのです。


でも、彼はそんな私に嫌な顔一つせずに、優しい言葉をかけてくれたり、励ましてくれていました。




彼はグチ一つこぼさず、明るい人だったので、


「悩みがないなんていいねー。」


なんて言ってしまったりすることもありました。





彼との別れは突然訪れました。彼が交通事故で亡くなったのです。


彼のお葬式に行っても、まったく実感が湧きませんでした。




お葬式の後、彼の両親から彼の携帯を渡されました。


携帯をいじっていると、送信されていない私宛のメールが たくさんあるのに気付きました。




そのメールには仕事のグチや悩みごとなどがたくさん書いてありました。



その瞬間、私は彼の辛さに気付かなかった自分のくやしさや、無神経な言葉を言った自分への後悔、常に私を気遣っていてくれた彼への感謝で涙が止まりませんでした。



あの日からもう1年以上になりますが、その携帯は大切にとってあります。



『約束のホームラン』



これはアメリカのある田舎町に住む野球好きの少年と、メジャー屈指のスラッガーのお話です。

主人公の野球好きの少年は、小さな頃に事故で視力を失いました。

少年が10歳になった時、少年の両親は主治医から衝撃の事実を伝えられます。



「彼の目の見えなくなった理由は、事故で彼の脳が大きなダメージを負ったからです。彼の脳は今でも少しずつ失われています。このままではやがて、彼は命を落としてしまうでしょう」

「脳の手術を行うしかありません。運が良ければ、目もまた見えるようになるでしょう。ただ、大きな手術になるので当然大きなリスクも伴います」

両親は悩んだ末に手術を行うことを決意し、そのことを息子にも伝えますが、頭の中の手術ということで彼はなかなか「うん」と言うことができません。



少年は大の野球好きで、メジャーリーグでも5本の指に入るあるスラッガーと彼のチームの大ファンでした。



そこで両親は、そのメジャーリーガーが直接息子に会って説得をしてくれれば、手術を決断してくれるのではないかと考え、いろいろなルートでそのメジャーリーガーとコンタクトを取ろうと駆け回りました。

しかし世の中、そんなに甘くはありません。
いつまでたってもそのメジャーリーガーと少年の面会はかなわず、月日だけがどんどんと過ぎていきました。

そんな折、1本の電話が鳴りました。
電話の相手は、何とそのメジャーリーガーだったのです。



噂を聞いた彼のマネージャーが、盲目の少年の事をメジャーリーガーに話してくれたのです。
こうしてついに、少年とメジャーリーガーの面会が実現しました。



「君自身のためにも、君のことを心配してくれる両親のためにも、手術を受けてくれないか?」

「でも頭の中の手術だっていうし…正直怖いんだ」

「でも…」

「でも?」

「僕のためにホームランを打ってくれるなら…」

「何だって?」



「次の試合、あなたが僕のためにホームランを打ってくれるなら、手術を受ける。手術を受ける勇気が沸いてくると思うんだ」



少年の申し出にメジャーリーガーは一瞬戸惑いました。
もしもホームランを打てなかったら、少年は手術を受けてくれないかもしれません。
そうなれば、最悪の事態も想定されます。しかし。



「ああ!次の試合、君のためにホームランを打つよ。だから君も、僕がホームランを打ったら手術を受けるんだ」と、反射的に答えてしまいました。



この話はチームの広報担当者がマスコミにリークしていたために、すぐに全米のメディアに取り上げられることになりました。

テレビや新聞は、かつてベーブ・ルースが行った「予告ホームラン」になぞらえ、この話を大々的に報じました。



翌日の新聞には
「予告ホームラン、盲目の少年と約束」
という大きな見出しが載りました。



メジャーリーガーは後悔していました。
もし自分がホームランを打てなければ、少年は手術を受けてくれないかもしれません。
そうなれば、彼の命は危険にさらされます。

しかし、自分にできることはとにかくベストを尽くすことしかないと考え、当日の試合を迎えました。

当日の試合はメディアによる報道もあり、大変な注目の中で行われることになりました。
少年もラジオの実況中継が始まるのを待ちわびていました。





午後6時30分、試合が始まりました。



相手チームのエースは連戦連勝、その勢いのままに初回から真っ向勝負を挑んできました。
予告ホームランのことは知っていましたが、手を抜くことはプロとして失格だし、スラッガーである彼にも失礼だと考えていたのです。

7回終了時点で彼の成績は3打数1安打1三振。
ホームランはまだありません。

そして迎えた9回裏の最終打席。
2アウト2、3塁、1対3、2点差で負けている場面でした。



ここでホームランを打てば逆転サヨナラ、彼のチームの勝利です。
次のバッターは絶不調だったので、ここは彼を一塁に歩かせてもいい場面でした。

しかし、相手チームのエースはマウンドでストレートの握りを彼に見せました。
予告ホームランに対し、予告ストレート、この相手エースの予告投球に、スタジアムは騒然となりました。

相手エースとスラッガーの勝負は2-3のフルカウントまでもつれました。
相手エースは、最後の一球もストレートを予告しました。



最後にエースが投げた渾身のストレートを、彼はフルスイングしました。



「お願い打って!!」球場にいた人たちも、テレビで見ていた人たちも、ラジオで聞いていた少年も、皆が天に祈りました。



!!!






しかしボールはキャッチャーミットの中。
試合終了です。

その時でした。
実況をしていたラジオのアナウンサーが叫びました。




「やりました!打ちました!!大きな打球がスタジアムを超えて場外へ、月に届くかのような大きな大きなホームランです!!」




スタジアムの観客も拍手をして、2人の勝負を讃えました。観客は彼の名前を連呼し「ナイスホームラン!」と口々に叫び、いつのまにか球場全体が同じ言葉でつながっていました。

アナウンサーは少年の名前を呼んで言いました。
「聞こえるかい、すごい声援だろう? 彼は見事に君との約束を果たしたんだ!」

「今度は君自身が手術でホームランを打つんだよ。そして手術を成功させて、いつの日か君の目でホームランを見にスタジアムに来るんだ」と締めくくりました。



明くる日の新聞にこんな言葉がありました。
" 昨日の試合、彼の成績は4打数1安打2三振。ただそのうちの1三振は、見事なホームランだった"

誰もが目撃したのです。
心でしか見えないホームランを。
ラジオのアナウンサーはそのホームランを見事に実況したのです。

1年後、球場にはかつて盲目だった少年の姿がありました。
少年の瞳には、スラッガーの放つ豪快なホームランの軌跡がはっきりと映っていました。
幻のホームランは、時を超えて本物のホームランになったのです。