2013年9月30日月曜日

『通知表』



私が小学校五年生の担任になったとき、クラスの生徒の中に勉強ができなくて、服装もだらしない不潔な生徒がいたんです。

その生徒の通知表にはいつも悪いことを記入していました。

あるとき、この生徒が一年生だった頃の記録を見る機会があったんです。



そこには

「あかるくて、友達好き、人にも親切。勉強もよくできる」

あきらかに間違っていると思った私は、気になって二年生以降の記録も調べてみたんです。



二年生の記録には、

「母親が病気になったために世話をしなければならず、ときどき遅刻する」

三年生の記録には、

「母親が死亡、毎日悲しんでいる」

四年生の記録には、

「父親が悲しみのあまり、アルコール依存症になってしまった。暴力をふるわれているかもしれないので注意が必要」


………私は反省しました。今まで悪いことばかり書いてごめんねと。

そして急にこの生徒を愛おしく感じました。

悩みながら一生懸命に生きている姿が浮かびました。



なにかできないかと思った私はある日の放課後、この生徒に

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、一緒に勉強しない?」

すると男の子は初めて笑顔を見せました。


それから毎日男の子は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けました。

男の子は自信を持ち始めていました。





そしてクリスマスの午後の日の事です。

男の子が小さな包みを私の胸に押付けてきました。

後で開けてみると、香水の瓶でした。



きっと亡くなったお母さんが使っていた物にちがいない。

私はその一滴をつけ、夕暮れに男の子の家を訪れました。

男の子は、雑然とした部屋で独り本を読んでいました。



男の子は、気がつくと飛んできて、私の胸に顔を埋めて叫んびました。

「ああ、お母さんの匂い!今日はなんて素敵なクリスマスなんだ。」




六年生になって男の子は私のクラスではなくなったんですが、卒業式の時に

「先生はぼくのお母さんのような人です。ありがとうございました」

と書かれたカードをくれ、卒業した後も、数年ごとに手紙をくれるんです。



「先生のおかげで大学の医学部に受かって、奨学金をもらって勉強しています」

「医者になれたので、患者さんの悲しみを癒せるようにがんばります」



そして、先日私のもとに届いた手紙は結婚式の招待状でした。

そこにはこう書き添えられていました。



「母の席に座ってください」



『人生を楽しく生きるってこういう事なんだ』



今日、近所の交差点で車に乗って信号待ちをしていると、前方の右折車線でジリジリ前進している車がいた。

明らかに信号が青になった瞬間に曲がっちまおう、っていうのが見え見え。

この道路は主要幹線(って言っても所詮田舎のだが)で交通量も多い。
確かにこのチャンスを逃したら、右折信号が出るまでの数分は足止めを食らうだろう。



俺は
「ほんの数分も待てねーのかよ。やらせっかよ、このDQNが」
と毒づきながら、信号が変わる瞬間を待っていた。

当然譲る気は無い。昼飯前の空腹感と暑さが俺を少々苛立たせていた。




すると、いきなり、俺の左の車線の車から中年の男性が降りてきた。
自分の車を放っておいて。その車には誰も乗っていない。
もうすぐ信号が変わる大通りで信じられない出来事。

そのおっさんは、俺の車の前に背を向けて立ち、『止まっとけ』のサインを出しつつ、右折しようとした車に『早く行け』と手を振った。

右折車が結構なスピードで右折していく。
しかし、俺の目にははっきりと見えた。



苦しそうな顔の女性が。
助手席の窓にまで達した大きな腹。
明らかに妊婦。

俺は、咄嗟に助手席の窓を全開にし、小走りで車に戻ろうとしていたおっさんに叫んだ。

「ありがとう! 全然気づかなかったよ!」



おっさんは、ちょっとびっくりしたような顔をすると、
「仕事が交通整理なんでな!」
と、笑いながら言い返してきた。

その顔の誇らしげなこと。とても眩しく見えた。



後続車の猛クラクションの中、俺たちは慌てて発進した。

ハザードを2回焚く。
多分、隣の車も。



結果的に俺は何も出来なかった訳だが、あそこで「ありがとう」と言えた自分に感謝したい。
素直な感謝の気持ちをそのまま言葉にする。

自分が本当に思っていることを口にして言うだけなのに、それが恥ずかしくて出来なかった、愚かな俺。

いままで、本当に言いたいことも言えず、へらへら生きてきただけの自分を後悔する毎日だったから。



『人生を楽しく生きるってこういう事なんだ』



それがちゃんと出来ることを教えてくれたおっさん、本当にありがとう。
そして、あのときの妊婦さんが、元気な子供を生んでくれることを、心からお祈りします


『お兄ちゃん帰ってきて』



私には、兄がいました。

3つ年上の兄は、妹想いの優しい兄でした。

ドラクエ3を兄と一緒にやってました。(見てました。)

勇者が兄で、僧侶が私。遊び人はペットの猫の名前にしました。

バランスの悪い3人パーティ。兄はとっても強かった。

苦労しながらコツコツすすめた、ドラクエ3。おもしろかった。

たしか、砂漠でピラミッドがあった場所だったと思います。

とても、強かったので、大苦戦してました。



ある日、兄が友人と野球にいくときに、私にいいました。

「レベ上げだけやってていいよ。でも先には進めるなよ。」

私は、いっつもみてるだけで、よくわからなかったけど、

なんだか、とてもうれしかったのを覚えてます。

そして、その言葉が、兄の最後の言葉になりました。





葬式の日、父は、兄の大事にしてたものを棺おけにいれようとしたのを覚えてます。

お気に入りの服。グローブ。セイントクロス。そして、ドラクエ3。

でも、私は、ドラクエ3をいれないでって、もらいました。

だって、兄から、レベ上げを頼まれてたから。



私は、くる日もくる日も時間を見つけては、砂漠でレベ上げをしてました。

ドラクエ3の中には、兄が生きてたからです。

そして、なんとなく、強くなったら、ひょっこり兄が戻ってくると思ってたかもしれません。

兄は、とっても強くなりました。とっても強い魔法で、全部倒してしまうのです。



それから、しばらくして、ドラクエ3の冒険の書が消えてしまいました。

その時、初めて私は、泣きました。 ずっとずっと、母の近くで泣きました。



お兄ちゃんが死んじゃった



やっと、実感できました。

今では、前へ進むきっかけをくれた、冒険の書が消えたことを、感謝しています


『娘』



今日も仕事で疲れきって遅くなって家に帰ってきた。

すると、彼の5歳になる娘がドアのところで待っていたのである。

彼は驚いて言った。



父「まだ起きていたのか。もう遅いから早く寝なさい」

娘「パパ。寝る前に聞きたいことがあるんだけど」

父「なんだ?」

娘「パパは1時間にいくらお金をかせぐの?」



父「お前には関係ないことだ」

父親はイライラして言った。

父「なんだって、そんなこと聞くんだ?」

娘「どうしても知りたいだけなの。1時間にいくらなの?」



女の子は嘆願した。

「あまり給料は良くないさ・・・20ドルくらいだな。ただし残業代はタダだ」

「わぁ。」

女の子は言った。

「ねえ。パパ。私に10ドル貸してくれない?」



「なんだって!」

疲れていた父親は激昂した。



「お前が何不自由なく暮らせるためにオレは働いているんだ。それが金が欲しいだなんて。だめだ!早く部屋に行って寝なさい!」

女の子は、黙って自分の部屋に行った。



しばらくして父親は後悔し始めた。少し厳しく叱りすぎたかもしれない…。

たぶん娘はどうしても買わなくちゃならないものがあったのだろう。

それに今まで娘はそんなに何かをねだるってことはしない方だった・・・。





男は娘の部屋に行くとそっとドアを開けた。

「もう寝ちゃったかい?」

彼は小さな声で言った。

「ううん。パパ!」



女の子の声がした。少し泣いているようだ。

「今日は長いこと働いていたし、ちょっとイライラしてたんだ・・・。
 ほら。お前の10ドルだよ」

女の子はベットから起きあがって顔を輝かせた。



「ありがとう。パパ!」

そして、小さな手を枕の下に入れると数枚の硬貨を取り出した。

父親はちょっとびっくりして言った。

「おいおい。もういくらか持ってるじゃないか」

「だって足りなかったんだもん。でももう足りたよ」

女の子は答えた。そして10ドル札と硬貨を父親に差しのべて、




「パパ!私20ドル持ってるの。これでパパの1時間を買えるよね?」



『一粒の豆よ「ありがとう」』



ヒロインは一人のお母さんです。

もう30年近くお目にかかっていませんが、元気でお過ごしになっていると思います。
年齢は私とほぼ同じです。十数年前に九州の某所で偶然ばったりとお会いしたきりです。


「あ、暫くでした。お元気で何よりです。お子さん達は?」
「お陰様で無事に暮らしております」
「もう大きくなられたでしょう」
「先生、大きいどころではございません。長男には孫がおりますし、下の子もまもなく結婚します」

「そうですかァ、月日のたつのは早いものですね。あの頃のお子さんは・・・・・」
「はあ、上が小学校の五年生頃でしたかねえ、下の子が三つ年下でしたから・・・・・」


 その二年前にご主人が自動車事故に遭遇しました。
のちに私は確認のために事故の現場に立ったことがあるのですが、どちらが悪いのかわからない微妙な事故でした。
それにもかかわらず、ご主人は救急車で病院に入りましたが、二時間後に亡くなられ、不幸は追い討ちをかけて、加害者と認定されてしまったのです。相手の方も重傷でした。弁償に当てるために残された家や小さな土地を売り払い、お母さんは二人の幼い子を連れて、知り合いの人の情にすがって、転々と居を移しました。最後にある方のご好意で納屋を提供され、そこに住みました。

中は六畳一間程の広さしかない上に、納屋ですから押入れもありません。電線を引き込んで裸電球をつけました。昼間でも明かりをつけておかないと、室内は真っ暗です。外にあった水道を使わせてもらい、煮炊きは七輪に火を起こしてやりました。


 お母さんは生活を支えるために、朝は五時に起きて朝食の仕度をし、六時には家を出て、近くのビルを一人で各階すべてを掃除する仕事をし、一旦家に戻って食事をすませると、今度は子供達が通う小学校で給食のお手伝いをやり、夜は料亭の板場でお茶碗やお皿を洗うという毎日が、一年中続きました。

ご主人が亡くなられた後の整理もそこに重なって、お母さんの疲労は積み重なっていきました。子供達が二人とも健康で明るい性格であったのがただ一つの救いでしたが、二年もすると、さすがに疲れ果てました。

果たしてこれで生きていけるのかしら、いっそのこと子供と一緒に死んでしまったほうが、子供達のためにも幸せであるかもしれないと思い詰めるようになってきました。


 ある日のこと、いつものように朝早く家を出ようとするときに、お母さんはお兄ちゃんがまだすやすや寝ている枕許に、一通の置き手紙を書きました。

―お兄ちゃん、今夜は豆を煮ておかずにしなさい。七輪に火を起こして、お鍋に豆を浸しておいたからそれをかけて、豆が柔らかくなったら、おしょう油を少し入れなさいー

文字通り薄いせんべい蒲団の中で、体を寄せ合って眠っている二人の子に、もう一度蒲団を寒くないように掛け直すと、まだ暗い中を働きに出ました。




 自殺する人の多くは、瞬時に死を決意するそうですが、その日は普段よりも一層強く子供達と一緒に死んでしまおうとお母さんは意識していたそうです。  どういう風にして手に入れたかは聞いていませんが、お母さんは睡眠薬を多量に買い込んで家に戻りました。

心身共に疲れ切っていて、納屋の戸を、すでに寝ている子供達にがたぴしという音を聞かせないように開けるのさえ容易でありませんでした。


 薄暗い豆電球を一つつけただけで二人は眠っていました。
普段から電気代を節約しなくては駄目よと言ってあるのを、子供達はよく守っていてくれているようでした。

寒いけれども七輪に火を起こす気にもなれず、お母さんは板張りの床の上に敷いたゴザの上に、べったりと座り込んでしまいました。
どうしたらこの子達に睡眠薬を飲ませることが出来るのか、恐ろしい空想が頭の中を駆けめぐりました。


 お母さんはふと気がつきました。
お兄ちゃんの枕許に紙が置いてあり、そこに何か書いてあるようなのでした。
お母さんはその紙を手に取りました。
そこにはこう書かれていたのでした。


―お母さん、おかえりなさい。お母さん、ボクはお母さんの手紙にあった通りに豆をにました。
豆がやわらかくなった時に、おしょうゆを少し入れました。
夕食にそれを出してやったら、お兄ちゃんしょっぱくて食べられないよと言って、弟はごはんに水をかけて、それだけ食べて寝てしまいました。
お母さん、ごめんなさい。でもお母さん、ボクはほんとうに一生けんめい豆をにたのです。
お母さん、あしたの朝でもいいから、僕を早く起こして、もう一度、豆のにかたを教えてください。
お母さん、今夜もつかれているんでしょう。お母さん、ボクたちのためにはたらいてくれているんですね。
お母さん、ありがとう。おやすみなさい。さきにねます・・・――



 読み終わった時、お母さんの目からはとめどなく涙が溢れました。
「お兄ちゃん、ありがとう、ありがとうね。お母さんのことを心配してくれていたのね。ありがとう、ありがとう、お母さんも一生懸命生きて行くわよ」
お母さんはそうつぶやきながら、お兄ちゃんの寝顔に頬ずりをし、弟にもしました。

納屋の隅に落ちていた豆の袋を取上げてみると、煮てない豆が一粒入っていました。
お母さんはそれを指でつまみ出すと、お兄ちゃんが書いた紙に大切に包みました。


 その時からお母さんは紙に包んだ豆を、いつも肌身離さずに持っています。
「もしお兄ちゃんがこの手紙を書いてくれなかったら、私達はお父さんを追って天国へ行っていたことでしょう。いいえ、私だけが地獄へ落とされたと思います。その私を救ってくれたのは、お兄ちゃんの『お母さん、ありがとう』の言葉でした」

「今でも?」と聞きますと、お母さんはハンドバックを開けて、すっとあの一粒の豆が入った小さな紙包みを取り出して見せてくれました。


「お兄ちゃんには話したのですか」
「いいえ、私がほんとうに死ぬ時に、あの子にありがとうを言うために、それまではそっと自分だけのものにしておきたいと思っています。私の人生の最高の宝物です」
いま、日本の広い空の下に、一粒の豆を包んだ紙を大切に身につけているお母さんが、どこかに一人いるのです。私もお母さんの秘密を守って行きます。

私のほうがたぶんお母さんより先にこの世を失礼するはずですので、秘密を守り切れると信じています。


ありがとう物語(鈴木健二著、発行:モラロジー研究所)から・・・



2013年9月28日土曜日

『ありがとう、ありがとう』


 一人のお母さんから、とても大切なことを教えられた経験があります。

 そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、知的障害を起こしてしまいました。
次に生まれた弟が二歳のときです。
ようやく口がきけるようになったその弟がお兄ちゃんに向かって、こう言いました。

 「お兄ちゃんなんてバカじゃないか」

 お母さんは、はっとしました。
それだけは言ってほしくなかった言葉だったからです。
そのとき、お母さんは、いったんは弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。
―――弟にお兄ちゃんをいたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。

 その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。
そして一年たち、二年たち・・・しかし、相変わらず弟は、「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。
お母さんはなんべんも諦めかけ、叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました。
しかし、もう少し、もう少し・・・と、根気よくノートをつけ続けました。

 弟が幼稚園に入った年の七夕の日、偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。
人があまりたくさん来たために興奮したのか、お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。

 みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、そういう子であることを知っていましたから、言い出しかねていました。
そのとき、弟が飛び出してきて、お兄ちゃんに向かって言いました。
「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。ぼく、痛いって言わないよ」
お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。

 その晩、お母さんはノートに書きました。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」
ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。




 人間が本当に感動したときの言葉は、こういうものです。

 やがて弟は小学校に入学しました。
入学式の日、教室で初めて席が決められました。
ところが弟の隣に、小児マヒで左腕が不自由な子が座りました。
お母さんの心は動揺しました。家ではお兄ちゃん、学校ではこの友だちでは、幼い子に精神的負担が大きすぎるのではないかと思ったからです。

 その夜、ご主人と朝まで相談しました。
家を引っ越そうか、弟を転校させようかとまで考えたそうです。
結局、しばらく様子を見てから決めようということになりました。

 学校で最初の体育の様子を見てから決めようということになりました。
学校で最初の体育の時間のことです。受持ちの先生は、手の不自由な子が体操着に着替えるのを放っておきました。
手伝うのは簡単ですが、それより、一人でやらせたほうがその子のためになると考えたからです。

 その子は生まれて初めて、やっと右手だけで体操着に着替えましたが、そのとき、体育の時間はすでに三十分も過ぎていました。
二度目の体育の時間のときも、先生は放っておきました。
すると、この前は三十分もかかったのに、この日はわずかな休み時間のあいだにちゃんと着替えて、校庭にみんなと一緒に並んでいたのです。

 どうしたのかなと思い、次の体育の時間の前、先生は柱の陰からそっと、その子の様子をうかがいました。
すると、どうでしょう。前の時間が終わるや、あの弟が、まず自分の服を大急ぎで着替えてから、手の不自由な隣の席の子の着替えを手伝いはじめたのです。
手が動かない子に体操着の袖を通してやるのは、お母さんでもけっこうむずかしいものです。
それを、小学校に入ったばかりの子が一生懸命手伝ってやって、二人ともちゃんと着替えてから、そろって校庭に駆け出していったのです。

 そのとき、先生は、よほどこの弟をほめてやろうと思いましたが、ほめたら、「先生からほめられたからやるんだ」というようになり、かえって自発性をこわす結果になると考え、心を鬼にして黙っていました。
それからもずっと、手の不自由な子が体育の時間に遅れたことはありませんでした。

 そして、偶然ながら、また七夕の日の出来事です。授業参観をかねた初めての父母会が開かれました。
それより前、先生は子どもたちに、短冊に願いごとを書かせ、教室に持ち込んだ笹に下げさせておきました。
それを、お母さんが集まったところで、先生は一枚一枚、読んでいきました。

 「おもちゃがほしい」、「おこづかいをもっとほしい」、「じてんしゃをかってほしい」・・・。
そんないかにも子どもらしい願いごとが続きます。
それを先生はずっと読んでいくうちに、こんな言葉に出会いました。

 「かみさま、ぼくのとなりの子のうでを、はやくなおしてあげてくださいね」
言うまでもなく、あの弟が書いたものでした。
先生はその一途な願いごとを読むと、もう我慢ができなくなって、体育の時間のことを、お母さんたちに話して聞かせました。

 小児マヒの子のお母さんは、我が子が教室でどんなに不自由しているだろうと思うと気がひけて、教室に入ることもできず、廊下からそっとなかの様子をうかがっていました。
しかし、先生のその話を聞いたとたん、廊下から教室に飛び込んできて、床に座り込み、この弟の首にしがみつき、涙を流し、頬ずりしながら絶叫しました。

 「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・・」

その声がいつまでも学校中に響きました。       


「本当に感動したときの言葉」鈴木 健二 著 講談社文庫より


2013年9月27日金曜日

『プールを歩いて渡った少女』


読売新聞の「窓」という欄に掲載されたお話です。



広島市の女子高校生のA子さんは、小児マヒが原因で足が悪い女の子でした。

A子さんが通う高校では、毎年7月のプール解禁日に、クラス対抗百メートル水泳リレー大会をしています。

男女二名ずつがそれぞれ25メートル泳ぐ競技です。

A子さんのクラスでこの大会の出場選手を決めていた時、女子一名がどうしても決まりませんでした。



早く帰りたいクラスのボスは
「A子はこの三年間、体育祭、水泳大会に一度も出ていない。最後の三年目なんだから、お前が参加しろ」
といじわるなことを言い出しました。

A子さんは誰かが味方すると思ったけれど、女生徒は何か言えば自分が泳がされると思い、みんな口をつぐんでいます。

男子生徒もボスのグループに憎まれたくないから、何も言いませんでした。

そして、結局泳げないA子さんが選手になったのです。



彼女は家に帰り、お母さんに泣きながら訴えました。

するとお母さんは
「お前は来春就職して、その会社で何かできない仕事を言われたら、また泣いて私に相談するの?そしてお母さんがそのたびに会社に行って、うちの子にこんな仕事をさせないでくださいって言いに行くの?」
そう言ってすごく怒り、A子さんを突き放しました。

A子さんは部屋で泣きはらし、25メートルを歩いて渡る決心をし、そのことをお母さんに告げに行きました。

するとお母さんは仏間で
「A子を強い子に育ててください」
と、必死に仏壇に向かって祈っていました。



水泳大会の日、水中を歩くA子さんを見て、まわりから笑い声やひやかしの声が響きました。

彼女がやっとプールの中ほどまで進んだその時、一人の男の人が背広を着たままでプールに飛び込み、A子さんの隣のコースを一緒に歩き始めたのです。

高校の校長先生でした。
「何分かかってもいい、先生が一緒に歩いてあげるから、ゴールまで歩きなさい。恥ずかしいことじゃない、自分の足で歩きなさい」
そういって励ましてくれたのです。



一瞬にしてひやかしや笑い声は消え、みんなが声を出して彼女を応援し始めました。

長い時間をかけて彼女が25メートルを歩き終わった時、友達も先生も、そしてあのボスのグループもみんな泣いていました。



読売新聞社記者、大谷昭宏氏の話
夢の卵の孵し方・育てかた』 仲田勝久著、致知出版社より


2013年9月26日木曜日

『一度きりのお子様ランチ』


東京ディズニーランド・ワールドバザールにあるレストランで実際にあった話です。

二人連れの若い夫婦がレストラン「イーストサイド・カフェ」に食事に行きました。

キャスト(ウェイトレス)が2人を二人がけのテーブルに案内してメニューを渡しました。

2人はAセットとBセットを一つずつ注文し、そして、オーダーし終わったとき、奥様が一つ追加で注文をしました。

「お子様ランチをひとつ下さい」

と・・・


キャストは

「お客様、誠に申し訳ございませんがお子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文は頂けないのですが・・・」

と丁寧に断りました。


すると二人は顔を見合わせて複雑な残念そうな表情を浮かべました。

その表情を見てとったキャストは

「何か他のものではいかがでしょうか?」

と聞きました。

すると、二人はしばらく顔を見合わせ沈黙した後、奥様が話出しました。

「実は今日は昨年亡くなった娘の誕生日だったのです。私の身体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。子供がおなかの中にいる時に主人と3人でこのレストランでお子様ランチを食べようねって言っていたんですが、それも果たせませんでした。子供を亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっとおちついて、亡き娘にディズニィーランドを見せて三人で食事をしようと思ったものですから・・・」



その言葉を聞いたキャストは2人を四人がけのテーブルに案内し、仲間に相談して全員の賛成を得て、お子様ランチのオーダーを受けました。

そして小さな子供用の椅子を持ってきて

「お子様の椅子はお父様とお母様の間でよろしいでしょうか?」

と椅子をセットしました。


その数分後・・・

「お客様、大変お待たせしました。ご注文のお子様ランチをお持ちしました」

とテーブルにお子様ランチを置いて笑顔で言いました。

「どうぞ、ご家族でごゆっくりお楽しみください」



数日後、お客様から会社に感謝の手紙が届きました。

「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。こんな体験をさせていただくとは夢にも思いませんでした。これからは涙を拭いて生きて行きます。また行きます。今度はこの子の弟か妹を連れて・・・」



参考:「しあわせを感じる喜び」林 覚乗著、文芸社

2013年9月25日水曜日

『世界一の両親』


ある女の人が学生の頃に強姦されました。

男性不信になった彼女はずっと男性を避けていましたが、会社勤めをしているうちにそんな彼女に 熱烈にアタックしてくる人がいました。


その男性の優しさや「こんな自分でも愛してくれるんだ」という気持ちから、彼女も彼と交際を始めました。そして交際を重ねて二年、ずっと清い交際を続けてきた彼が彼女をホテルに誘いました。


彼女は「大好きな人とできるのだから怖くない」と自分に言い聞かせましたが、やはりベッドの上でパニックを起こしてしまったそうです。その時、彼は彼女が泣きながら切れ切れに語る辛かった過去を辛抱強く穏やかに聞き、最後に泣き伏してしまった彼女に「ずっと大変な事を一人で抱えてきたんだね」と頭を撫でたそうです。


そして彼女の頭を一晩中撫で続けながら、彼女に語りかけていたそうです。  「これからはずっと俺が守るから。もう怖い思いはさせないから」 「焦る事は無いよ、ゆっくりと分かり合おう」 「君はとてもキレイだよ、ちっとも汚れてなんかいないよ」


「ごめんなさい」と繰り返す彼女に、彼は一晩中優しく語り掛け 「いつか、君が僕との子供が欲しいと思う時まで、心で深く分かり合っていこうよ。僕が欲しいのは君の体じゃなくて君自身だよ」と言い、その後彼女と結婚するまでの五年間、おでこにキスくらいまでの清い交際を続けました。


そして結婚してからも焦る事無く、ようやく初夜を迎えることができたのは結婚後二年経ってからだったそうです。 そして、私と弟が生まれました。


弟が二十歳になるのを待って、母が初めて子供二人に語ってくれた話でした。その話を聞いたとき、母の苦しみや父の愛情、そしてそれに母がどれだけ癒されたのか、今ここに 自分の生がある事のありがたさを知って、ボロボロと泣きました。


さらにその後、父とその件について話した事があったのですが、ホテルでの一件の後、父は結婚してから母を一人にする事のないように自営業を始めるため、五年間貯金をしたそうです。 開業資金、結婚資金が貯まって、母にプロポーズをした時も「一生子供が作れなくてもいい」 と思っていたそうです。


実際、振り返ってみても父と母はいつも一緒にいた所しか思い出せません。そんな両親も今はこの世にはいません。二年前に母がすい臓ガンで、昨年父が脳卒中でこの世を去りました。 母の命日に位牌を抱いたまま冷たくなっていた父を見て、弟と二人号泣しました。


「お父さん、本当にお母さんのことが大好きだったんだね」と大の大人が葬式でわぁわぁ泣きました。法事まで母を一人にできなくて同じ日に亡くなったんでしょうか。


私たちを叱る時、精一杯厳しくしようとして、出来なくて、目に涙を浮かべながら一生懸命大きな声を出していた父と、大きくなって「恥ずかしいよ」と文句を言っても私たちの頭を良く撫でてくれた母。


本当に最高の両親でした。



2チャンネル掲示板の話より

『おかあさん、ぼくが生まれて ごめんなさい』



「母への感謝を綴った詩に涙」というタイトルで石川県に住む主婦、高崎千賀子さんの投書が新聞に掲載され感動の輪が広がっています。



『「美術館なんて趣味に合わないし、書道なんてつまらない・・・」という女子高生の一団の言葉が、 美術館でボランティア監視員をしていた私の耳に入り、思わず口にしてました。 「あそこにお母さんのことを書いた書があるの。お願いだからあの作品だけは読んでいって」と・・。

女子高生たちは不承不承、私の指した書を鑑賞しました。すると一人がすすり泣き、そこにいた生徒全員が耐え切れずに、泣き出したのです。

その書は生まれたときから母に抱かれ背負われてきた脳性マヒの人が、世間の目を払いのけて育ててくださった、強いお母さんへの感謝の気持ちを綴った詩でした。「今の健康と幸福を忘れていました」と高校生たちは話し、引率の先生方の目もうるんでいました』



この詩の作者は山田康文くん。生まれた時から全身が不自由で書くことも話すことも出来ない。 養護学校の向野先生が康文くんを抱きしめ投げかける言葉が康文くんのいいたい言葉の場合はウインクでイエス、 ノーの時は康文くんが舌を出す。

出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけで1ヶ月かかったという。気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。そしてその2ヶ月後、康文くんは亡くなりました。



ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくはいう
ぼくさえ 生まれなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね
大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら


ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが 大切で
悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん
おかあさん
あなたがそこに いるかぎり

(山田康文)





山田康文くんは1960年奈良県桜井市に生まれました。山田家の次男で体重は2,700グラム、家族は大喜びでした。しかし生後12日目から熱が続き黄疸が出てきました。乳首を吸う力がなくお母さんは異常に気づき奈良県立医科大学の門をくぐりました。精密検査の結果は脳性マヒでした。

難産で康文くんの脳が酸素欠乏を起こしたか、脳内出血したかが原因でした。お母さんの京子さんは万一を願い数々の病院を廻りました。ハリ、指圧の治療、あらゆる治療法を行いました。宗教団体にも入信しました。

しかし康文くんの症状はいっこうに良くなりませんでした。お母さんは康文くんと一緒に死ぬことを考えました。しかし死を押しとどめたものは家族ぐるみの愛と康文くんの生きる意欲でした。




康文くんは8歳の時、奈良の明日香養護学校に入学しました。不自由児のための特殊学校で、康文くんも母子入学でした。康文くんは明るい子でクラスの人気者になりました。1975年4月には体の不自由な子供達が集う「タンポポの会」が「わたぼうしコンサート」を開き、康文くんの詩が披露されました。
このコンサートはテレビ、ラジオでも取上げられ森昌子さんが康文くんの詩を歌いました。

このコンサートのあと、康文くんは突然天国に行ってしまいました。窒息死でした。横になって寝ていたとき、枕が顔を覆ってしまったのです。お母さんは毎日泣き通しでした。

康文くんの死後、お母さんの京子さんは「たんぽぽの家」の資金集めに奔走し、兄の英昭さんは脳性マヒの治療法を研究するため医大に進みました。




平成12年1月、七尾市にある願正寺の住職で書道家の三藤観映さんが康文くんの詩を読み感動して筆を取りました。金沢市で開催された「現代美術展」に出展した三藤さんの作品は多くの人に感動を与えました。

今から30年ほど前の詩が三藤さんの書によって多くの人の感動を呼び、絶版になっていた『お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい』が25年ぶりに復刊しました。

康文くんの先生で、この本の著者の向野幾代さんは復刊にあたって「あの子の詩は障害者が『ごめんなさいね』なんて、言わなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね。いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。



『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。だから康文くんたちは私たちの先輩。世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」と・・・


参考:お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい (扶桑社文庫)