2013年11月27日水曜日

『卒業文集最後の二行』



傲岸で不遜きわまりない性格の私は「たまには反省しても、決して後悔はすべきではない」と自分に言い聞かせて、それを生活信条としている。

だが、こんな私でもこの場を借りて懺悔したい、いや、せずにはいられない出来事がある。

深い後悔、取り返しのつかない心の傷だ。



時は、青森県五所川原市の小学校時代にさかのぼる。

同級生にT子さんという女の子がいた。

彼女は早くしてお母さんを亡くし、二人の弟さんの面倒もみなければならなかった。



お父さんは魚の行商である。

仕事があまり芳しくないようで、経済的にも恵まれず、その頃の時代にしても彼女の服装はみすぼらしいというより、正直言って汚かった。

今にして思えば、母親がわり妻がわりという生活環境から、自分の身の回りをかまっているどころではなかったのだろう。



生意気で口の悪い私は、先頭になって彼女をけなした。

そのT子さんが、6年生のとき私の隣になった。



「きたねえから、もっと離れろ」

「シラミを移すなよ」(当時でもシラミはいなかった)

この私の言葉にまわりの悪童達は、さらにはやしたてた。



「魚の生ぐさい臭いがしてくるから、T子に寄るな」

「T子、同じ服を何週間着てるんだバ」

「毎日風呂さ入って頭洗って、シラミさ取って来い」



こうした嫌がらせ、いじめに彼女は涙を見せずに歯をくいしばって、じっと耐えていた。

泣いたりするともっといじめられると思ったのであろう。

担任に告げ口もしなかった。



我々はそれを知って、さらに輪をかけて口汚くののしり続けた。

そんなある日、クラスで漢字の小テストが行われた。

どうしても書けない漢字が、私に二個あった。



私はT子さんの答案用紙を覗き、カンニングした。

後日、答案返却があり、その際に先生が私を誉めてくれた。

「イチノヘ、よく頑張ったな。満点はお前ひとりだけだぞ」



私は後ろめたさを少し感じたが満足だった。

その後、愕然となった。T子さんは1個だけの間違いで98点なのだ。

私がカンニングをしなければ、彼女が最高得点者となる。





「さすがイチノヘさんね。おめでとう」

「ハハ、問題がやさしかったからな」

まったく愚かで、鼻持ちならない私、実に情けない。



30年を経た今でも慙愧(ざんき)に耐えない。

さらに、彼女にひどい追い打ちが待っていた。

授業の後、悪童どもが



「イチノヘの答えを見て書いたんだろう」

「お前が98点も取れるわけがねえよ」

「カンニングしてまで、いい点を取りたかったのか」



私も連中の尻馬に乗る発言をしてしまった。

「やっぱり、おめえは私の答えを見たんだろう。見だに決まってる。ずるいと思わねえか」

「私はイチノヘさんの答えを見でいません。着てるものは汚えかもしれないが、心は汚ぐねえ」



「どこまでワをいじめれば、気がすむの!」

とその場から泣きながら外へ飛び出して行った。

悪童どもは彼女の初めての涙に言葉を失った。



「卒業文集」のT子さんの作文の最後の二行である。

『・・・私の今一番欲しいのは母ではなく、本当のお友達です。そしてきれいなお洋服です』



現在、私は圧倒的に女子の多い大学で教壇に立っているが、機会あるごとに後悔と反省の気持ちから、この小学校時代の「悪事」を語って聞かせることにしている。

反面教師といわれようとも、せめてもの罪ほろぼしとして。

ただ語るたびに困ることがある。



喋っている私が学生の前で、つい涙を見せてしまうことと、聞いている学生も泣き出してしまうことである。

あの「卒業文集」の最後の二行は、大きな衝撃だった。

大いなる悔いを与えてくれた。あの二行を読まなかったなら、現在の私はどうなっていたであろう。

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新潮社 心に残るとっておきの話〈第2集〉 より




原文の文量は上記の2倍はあるのですが、長くなるので中略してあります。

現在は、学校における「いじめ」が大きく社会問題となっている。



担任を信頼していないことや「告げ口」したことによる反動を恐れるために、子供の世界のいじめは把握しにくい。

抵抗、反抗しない弱者に対して、いじめは益々エスカレートしていく。

学校の道徳授業に対して、「価値観の押し付けだ」という、伝統的な批判がある。



単に『いじめはダメですよ』と教師が言いたいことをストレートに言うだけでは、生徒の心に伝わらない。

そのことが伝わる資料を探して、生徒自身が問いを重ねることで気付かせる。

その方が生徒はよく考える。



そうしたことからその資料になったのが、ここに掲げた『卒業文集最後の二行』である。

複数の道徳副読本に採用されているという。



『妹への手紙』



静(しい)ちゃんへ

おわかれの時がきました。

兄ちゃんはいよいよ出げきします。

この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。



思いがけないお父さん、お母さんの死で、幼ない静ちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちゃんのかたみとして静ちゃんの名であづけていたゆうびん通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上るときにつかって下さい。

時計と軍刀も送ります。これも木下のおじさんにたのんで、売ってお金にかえなさい。


兄ちゃんのかたみなどより、これからの静ちゃんの人生のほうが大事なのです。

もうプロペラがまわっています。さあ、出げきです。ではお兄ちゃんは征きます。

泣くなよ静ちゃん。がんばれ!



兄ちゃんより

「大野沢威徳からの手紙」(万世基地から)
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大石静恵ちゃん、とつぜん、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思います。

わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。

伍長どのは今日、みごとに出げきされました。



そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちゃんのつくったにんぎょうを、大へん大事にしておられました。

伍長どのは、突入する時に、にんぎょうがこわがると可哀そうと言って、おんぶでもするように背中につっておられました。





飛行機にのるため走って行かれる時など、そのにんぎょうがゆらゆらとすがりつくようにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちゃんといっしよに居るつもりだったのでしょう。

同行二人・・・・仏さまのことばで、そう言います。



苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽっちではない。

いつも仏さまがそばにいてはげましてくださる。

伍長どのの仏さまは、きっと静恵ちゃんだったのでしょう。



けれど、今日からは伍長どのが静恵ちゃんの”仏さま”になつて、いつも見ていてくださることゝ思います。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。

静恵ちゃんも、りっぱな兄さんに負けないよう、元気を出してべんきょうしてください。



さようなら
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旧かな使いは読み辛いので直しました。

彼らの胸の内を思うと何とも切ないものがあります。

私自身、涙を誘う遺書の類は出来ることなら接したくはないな、と思うのですが、もう一人の私は、一人でも多くの若い人にこういった遺書を読んでもらいたいのです。



戦争のことなど歴史の授業でほんの少し触れるだけで、若い人の中には、かつて日本がアメリカと戦争したことすら知らない輩もいると聞きます。

年表だけで戦争を知るのではなく、戦争に涙してもらいたいのです。

当時の若者の運命、生命を翻弄した戦争の非情さ、残酷さを知っていてもらいたい。



またそれを語り継いでもらいたいと願うものです。

それが彼らの生きた証になるのですから。



『私を変えた人』



その頃の私は、非行少年のレッテルを張られていることを名誉とさえ思え、悪友と粗暴な行動の毎日。

高校だけは曲がりなりに卒業し、就職したものの、長続きするわけもなく、その後は3ヶ月おきに職を変え、まさに地に足が付かぬ日々を過ごしていました。

真面目にコツコツ働く一部の大人達が哀れに見え、命令口調で怒鳴りまくる上司に未熟者の私は、「てめぇら、なめんじゃねぇぞ!ばかやろう!」と、愚かさを繰り返し、職を変えていました。



そうした中で、西新宿の小さな喫茶店で働くことになりました。

異常な回転率で目まぐるしく出入りする客。

私より4つ上である細身の森さんは、次から次と襲うオーダーを手際よくこなしていました。



飲食業が初めての私は失敗の連続。

そんな繰り返しが1ヵ月と続き、足手まといの連続。

普通であれば怒鳴り声がとぶか、首になっても文句が言えない状況でした。



そんな不手際を森さんは笑顔で見守ってくれ、そればかりか普通は下の人間がやるべき汚い仕事や、いやな仕事の一切を自分でやる人でした。

客が引いた時などは私を休ませてくれて、皿洗いや片付けをする。

最初はこの店の方針がそうかなと思っていましたが、遅番の仕事ぶりをみて、どうやら自分の思い上がりに気付きました。



森さんは言葉ではなく、自らの行動で私に教えていたのです。

それが自分の中の何かを根本から打ち消す結果をもたらしてくれたのです。

それからというもの私は少しでも周りの人の役に立てるよう努めました。



その日は朝から雨が降りしきり、店は雨宿りがてらの客で蜂の巣をつついたような状況でした。

一人の女性客が

「すいません、トイレ詰まっていて使えないんですけど・・・」

この店のトイレは男女兼用で便器は一つだけ。

それが詰まったとなれば営業中止ともなりうる一大事。




私は急いでできうる手段を用いて回復を試みたが、水は溢れるばかり。

客の苦情が聞こえる中、修理屋を呼ぶ余裕などありません。

そこへ森さんが来て、白いワイシャツを二の腕までまくり上げたかと思うと、汚物が逆流している便器の中に素手を突っ込んだのです。



詰まっていたトイレットペーパーの固まりは見事に取り除かれ、便器の機能は回復しました。

「これじゃあ、いい男台無しだな。でもよかったな」

屈託のない笑顔。







私は唖然としてしばらく声がでず、金槌で頭を殴られたような衝撃が走ったことを覚えています。

いくら急を要するといえ、そこまでできる人はいません。

けちなプライドを持つよりもっと大切なこと、わかっているようで気付かないこと、人生において大事なことを森さんと働いた2年間ですべて教わったような気がします。



そのコミュニケーションはいつも言葉ではありませんでした。

その後、森さんは田舎の事情があって佐賀の方に帰郷することになりました。

「オレ田舎に帰って海苔づくりするよ。有明海だ、九州の方に来る機会があったら連絡してくれ」



森さんが去った後、私も店をやめ他の仕事に就くことになりましたが、それまでのことが、いかに他の方面でも役立った計りしれません。

いつも信頼という二文字が残っていくのがわかりました。

もしかしてあの人は神様だったかもしれないと思うのでした。
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潮文社・『心に残るとっておきの話』第三集より



この5年後、筆者は仕事で長崎に行った機会に、ホーム上で森さんと再開した喜びを記しています。

「これオレが作った海苔だ。東京へ帰ったら食ってくれ、うまいぞ」

“夢をみているようでした。疲れは一気に飛び、同時に何にも替えがたい悦びと涙が込み上げてどうすることもできませんでした。”と結んでいます。



筆者は、すばらしい人に巡り会いました。

しかし、感じるところがなければ、「ただ、いい人だった」で終わってしまいます。

筆者もまた、すばらしい人です。



あなたは汚物の便器の中に手を突っ込めますか?

躊躇(ちゅうちょ)せずに出来ることではありません。

私なら出来そうにありません。



それが出来るから偉いというわけではありません。

こうした人はいざという時に、どんな時にも 真価を発揮するとわかるからすばらしいのです。

いつの時代でも、場所を問わず、砂浜の雲母(きらら)のように、キラリと光る人がいますね。



こうした人間になりたいと願っているのですが・・。道遠し、です。

この話は、上に立つ者にとって、いい教訓を与えてくれています。

人を動かすのは言葉ではなく、手本をしめすこと、信頼されることなのだと教えてくれています。



怒鳴っているばかりの上司ではたまりません。

旧帝国海軍・連合艦隊長官の山本五十六の語録の中に、「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」とある。

厳しい訓練で鍛え、優秀な人材が沢山いたであろう旧海軍の長の言葉である。



思うように動かないからと叱りつける指導では駄目ですね。



2013年11月19日火曜日

『1リットルの涙』



『1リットルの涙』という日記があります。

この日記の作者は木藤亜也(愛知県・豊橋)さんという女性の方で、脊髄小脳変性病という、体を動かす働きをする小脳の細胞が減退してゆく難病に見まわれ、高校に入学する頃から病状が現われ出し、病気と闘いながら通学します。

しかし、病勢は止まらず、途中で養護学校に転校を余儀なくされ、遂にはベッドで寝たきりの生活の中でこの日記を書き綴ったのです。

25歳で亡くなりました。



「神様、病気はどうして私を選んだの?」



友達との別れ、車椅子の生活、数々の苦難が襲いかかる中、日記を書き続けることだけが亜也さんの生きる支えだった。

「たとえどんな小さく弱い力でも私は誰かの役に立ちたい」



『1リットルの涙』は、最期まで前向きに生き抜いた亜也さんの言葉が綴られた感動のロングセラーです。

映画化、テレビドラマ化されていますので、ご存知の方も多いかと思います。

彼女が在命中に出版され、大きな反響を呼びました。





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生きたいのです。

動けん、お金ももうけれん、人の役に立つこともできん。

でも生きていたいんです。

わかってほしいんです。



お母さん、わたしのような醜い者が、この世に生きていてもよいのでしょうか。

わたしの中の、キラッと光るものをお母さんなら、きっと見つけてくれると思います。



若さがない、張りがない、生きがいがない、目標がない……

あるのは衰えていく体だけだ。

何で生きてなきゃあならんかと思う。反面、生きたいと思う。



我慢すれば、すむことでしょうか。

一年前は立っていたのです。話もできたし、笑うこともできたのです。

それなのに、歯ぎしりしても、まゆをしかめてふんばっても、もう歩けないのです。

涙をこらえて

「お母さん、もう歩けない。ものにつかまっても、立つことができなくなりました」



後十年したら……、考えるのがとてもこわい。

でも今を懸命に生きるしかないのだ。

生きていくことだけで、精いっぱいのわたし。
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いま、彼女の残した日記や生きた証を知る事で、大勢の人たちが生きる事の大切さを再認識させられ、そして生きる勇気をもらっています。

彼女の「誰かの役に立ちたい」と言う思いは、いま尚、生き続けています。

1リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記 (幻冬舎文庫)


『お父さん、お母さん 愛してる』



子供を先に亡くしてしまう親の心情は察するに余るものがあり、特にそれが小さな子供だと、他人でも涙を誘います。

エレナちゃんは5歳のときにガンの宣告を受け、6歳でその短い生涯を終えました。

しかし彼女が亡くなったあとで、家族は彼女が残した小さな手紙を見つけました。



それは家族に向けて、エレナちゃんが愛情を込めて書いたメモだったのです。

それは1通だけではなく、あとからあとから何百通も、そして2年経っても、家中から出てくるそうです。

エレナちゃんはたった5歳のときに脳ガンと診断されました。



医者には余命135日と宣告され、そこから激しい病気との闘いが始まります。

心を痛めた両親は残された毎日が彼女にとって特別になるように、彼女とその妹のグレイシーちゃん4歳のために出来るだけのことをすることにしました。

彼女を守りたい一心で、死ぬかもしれないことは一切伏せていたそうです。



ガンに集中するのではなく、家族が一緒にいること、エレナちゃんがしたいことに集中したのです。







エレナちゃんは病気と闘っていた9ヶ月の間、家族の知らない間にメモを書いては家中に隠しておきました。

何百通と言う彼女の愛情のこもったメモが戸棚や引き出し、かばんや衣服の中から彼女が亡くなったあとで出てきたのです。

最初のメモはエレナちゃんが亡くなって数日後に引き出しの中から見つかりました。



さらにその後、いろいろな場所から無数の手紙が出てきたのです。

クリスマスの飾りが入っている袋からも出てきたそうです。



本が大好きで、大きくなったら先生になりたいと言っていたエレナちゃんのことを、その年齢の子よりいろいろ理解していたと両親は述べています。

「死を悟っていたとは思いたくはないが、もしかしたら知っていたのではないか」と父親のキースさんは語っています。

1ヶ月の放射線治療のあと彼女の症状は急激に悪化し、話せなくなり、体も麻痺していきました。



そして255日後、その小さな体は息を引き取ったのです。

「パパ、ママ、グレイシー大好き」など、数百通におよぶ絵が添えられた愛情いっぱいのメッセージは両親と妹、祖父母に向けられたもので、叔母が飼っているお気に入りの犬に向けたものまであったそうです。

両親は最後のメモを見つけたくないばかりに、1通を未開封のまま大事に残していると言います。



闘病生活の間の両親の大変さは聞くに堪えず、彼らがエレナちゃんのメモを見つけたときの心情は察するに余るものがあります。

ご冥福をお祈りします。



『花嫁の電話』



加奈子ちゃんが近所に引っ越してきたのは、まだ小学校三年生のときでした。

ときどきわが家に電話を借りに来るのですが、いつも両親ではなく加奈子ちゃんが来るので、おかしいなと思っていたのですが、しばらくしてその訳がわかりました。

加奈子ちゃんのご両親は、耳が聞こえない聴覚障がいがある方で、お父さんは言葉を発することが出来ません。



親御さんが書いたメモを見ながら、一生懸命に用件を伝える加奈子ちゃんの姿を見ていると、なんだか胸が熱くなる思いでした。

今なら携帯電話のメールがありますが、その時代を生きた聴覚障がいを持つ皆さんは、さぞ大変だったろうと思います。

加奈子ちゃんの親孝行ぶりに感動して、我が家の電話にファックス機能をつけたのは、それから間もなくのことでした。



しかし、当初は明るい笑顔の、とてもかわいい少女だったのに、ご両親のことで、近所の子供達にいじめられ、次第に黙りっ子になっていきました。

そんな加奈子ちゃんも中学生になる頃、父親の仕事の都合で引っ越していきました。



それから十年余りの歳月が流れ、加奈子ちゃんが加奈子さんになり、めでたく結婚することになりました。

その加奈子さんが、
「おじさんとの約束を果たすことができました。ありがとうございます」

と頭を下げながら、わざわざ、招待状を届けに来てくれました。



私は覚えていなかったのですが、
「加奈子ちゃんは、きっといいお嫁さんになれるよ。だから負けずに頑張ってネ」

と、小学生の加奈子ちゃんを励ましたことがあったらしいのです。

そのとき「ユビキリゲンマン」をしたのでどうしても結婚式に出て欲しいというのです。



「電話でもよかったのに」
と私が言うと、

「電話では迷惑ばかりかけましたから」
と加奈子さんが微笑みました。

その披露宴でのことです。新郎の父親の謝辞を、花嫁の加奈子さんが手話で通訳するという、温かな趣向が凝らされました。



その挨拶と手話は、ゆっくりゆっくり、お互いの呼吸を合わせながら、心をひとつにして進みました。







「花嫁加奈子さんのご両親は耳が聞こえません。お父さんは言葉も話せませんが、こんなにすばらしい花嫁さんを育てられました。障がいをお持ちのご両親が、加奈子さんを産み育てられることは、並大抵の苦労ではなかったろうと深い感銘を覚えます。嫁にいただく親として深く感謝しています。加奈子さんのご両親は“私達がこんな身体であることが申し訳なくてすみません”と申されますが、私は若い二人の親として、今ここに同じ立場に立たせていただくことを、最高の誇りに思います」



新郎の父親の挨拶は、深く心に沁みる、感動と感激に満ちたものでした。

その挨拶を、涙も拭かずに手話を続けた加奈子さんの姿こそ、ご両親への最高の親子孝行だったのではないでしょうか。

花嫁の両親に届けとばかりに鳴り響く、大きな大きな拍手の波が、いつまでも疲労宴会場に打ち寄せました。



その翌日。新婚旅行先の加奈子さんから電話が入りました。

「他人様の前で絶対に涙を見せないことが、我が家の約束ごとでした。ですから、両親の涙を見たのは初めてでした」

という加奈子さんの言葉を聞いて、再び胸がキュンと熱くなりました。




追記:HP・「NTT西日本」コミュニケーション大賞受賞作品より


私の知っている人も、御両親が耳の障害を持っていらっしゃって、立派な方がいます。

口でのコミュニケーションの大切さは言うまでもありませんが、子供の躾とはいったい何だろう?と思いますね。

口うるさく世話ばかり焼いている親がいますが、子はいつものことだと無視です。



大切なことは親の生き様、生きる姿勢だと思います。

一挙一動です。何も言わなくても、子は見ていて真似るものです。

もちろん、私が立派な親というものではなく、反省の弁でもあります。


2013年11月13日水曜日

『大好きなもの大切に/大リーガー-松井秀喜』



「いじめられてる君へ」



君は、無理して立ち向かわなくていいんだよ。

学校やクラスにいても楽しくない。

仲間にうまく入れない。



それなら、それで、別にいいんじゃないかな。

だれかが作った世界に君が入らなければいけない、ということはないんだよ。



それより、君には、居心地のいい場所で、自分の好きなことに夢中になってほしい。

何かに没頭することによって、いやなことが気にならないことって、あると思うんだ。

逃げるんじゃない。



自分から好きな場所を選ぶんだ。

その中で同じ夢を持った友だちに出会うこともあるだろう。

新しい仲間ができるかもしれない。







ぼくは、小さいこと、体が大きいいだけでなく、太っていた。

それを悪くいう友だちがいたかもしれない。

ぼくはまったく気にならないタイプだからコンプレックスを感じることもなく、ただ大好きな野球に没頭していた。



そのうちに、自然と体も絞れてきた。

もちろんいい仲間とも、たくさんめぐり合うことができた。

だから君にも大好きなことを見つけて、自分の夢を持ってほしいんだ。



スポーツが好きな人もいれば、音楽が好きな人もいるだろう。

何かを書いたり、作ったり。

見ることでもいいんだ。

大好きなものに出会えたら、それを大切にしてほしい。



君をいじめている人がいるとしたら、その人もきっとつらい気持ちでいると思う。

だって、人をいじめることが夢なんて人はいないはずでしょう。



いじめは夢の遠回りなんだ。

そのひとにも、自分の夢を早く見つけて欲しいと言いたい。

後悔するような時間は、短い方がいいからね。

だから、いま君が立ち向かうことはないんだ。



2013年11月12日火曜日

『天国から届いた旦那からの手紙』



彼女の旦那さんは辛く激しい闘病生活の末、その短い生涯を閉じました。それから五年後、彼女のもとへと一通の手紙が届けられました。それは先立った愛しい旦那からの手紙でした。


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旦那が激しい闘病生活の末、若くして亡くなって五年後、こんな手紙が届きました。

どうやら死期が迫ったころ、未来のわたしに向けて書いたものみたいです。



以下全文



Dear 未来の○○

元気ですか?大好きな仕事はうまくいってますか?きっと○○だもん、今でも凄い人気者なんだろうなあ。嫉妬しちゃうよ。

早速だけど、俺はもう長くないみたい。仕事柄、なんとなく自分の体のことはわかるんだ。薬もだいぶ変わったしね。

だから、○○に最後の手紙を書くことにしました。

もう今頃新しいかっこいい旦那さんが出来てるかな? (笑)

いいんだよ、俺に遠慮しないで幸せになってよ。○○は誰かを幸せにできる才能を持ってる。その才能を持った責任を負わなきゃいけないんだ。

○○が幸せになるところ、きちんと見守ってるからね。俺は大丈夫。向こうで可愛い女の子見つけて恋するもんね! (笑)

そして○○は沢山子供を作ってステキな家庭を作るの。○○の子供だもん、きっとかっこいいんだろうなあ~

俺生まれ変われたら○○の子供になっちゃおうかな (笑)

生まれ変わりの順番待ちがあったら割り込んじゃうもんね!おやじ発想だな。

でもね、一つだけお願いがあります。







どうか俺のことを忘れないで。どんなに幸せになっても、一年に何回かでいいから思い出して。

俺はもうお父さんもお母さんもいないから、、○○が忘れたらもうこの世界に俺はいなくなっちゃう。それだけが怖いんだ。

何回かというのはね、

付き合い始めた日、幕張のレストランに海。

一緒に行った夏の北海道、あの時買ったペアリングはずっと今でもつけてるよ。お棺にいれないでね、○○が持ってて。

結婚記念日は○○酔いつぶれてたし、いいや (笑)

そして俺の命日。多分○○のことを思いながら幸せに眠るんだろな。

この三つが俺の思い出ランキングトップです!だから年三回でいいから思い出してね。お願いね。

○○が思い出してくれるとき、きっと俺はその瞬間だけこの世界に生き返れるんだ。

最後までわがままだね (笑) ごめんなさい。

未来に向けて書くつもりが、なんかよくわかんなくなっちゃった。だって○○の未来は輝いてて、眩しくて、全然見えませんよ!

さて、レントゲンに呼ばれたのでこれで終わりにします。時間かけて書くと長くなりそうなので、思いつきで書いたこの手紙で一発終了。

○○、今までありがとう。悲しい思いをしてしまったらごめんなさい。

おまえと過ごした俺の人生、おまえと作った俺の人生。幸せ過ぎてお腹いっぱいです。もう悔いはないよ。

○○の幸せをずっとずっと見守ってます。

未来の○○の笑顔を思いながら

△△より

ps.ご飯はちゃんと食べるんだよ



最後まで注文ばっかだね全く

わたしはまだ一人だよ

でも幸せだ この手紙をみて改めて実感した

わたし頑張るから、ずっと見ていてほしい

ありがとう




『最後のおべんとう』



私が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った男性の方がいました。

余命3か月と診断され、
彼は諏訪中央病院の
緩和ケア病棟にやってきました。

ある日、病室のベランダで
お茶を飲みながら話していると、
彼がこう言ったんです。



「先生、助からないのはもう分かっています。
だけど、少しだけ長生きをさせてください」

彼はその時、42歳ですからね。

そりゃそうだろうなと
思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいました。



すると彼が、

「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
 卒業式を父親として見てあげたい」

と言うんです。

9月のことでした。

彼はあと3か月、
12月くらいまでしか生きられない。



でも私は春まで生きて
子供の卒業式を見てあげたい、と。

子供のためにという思いが
何かを変えたんだと思います。

奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。



こうしたことは
科学的にも立証されていて、

例えば希望を持って
生きている人のほうが、

がんと闘ってくれる
ナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。



おそらく彼の場合も、

希望が体の中にある
見えない3つのシステム、
内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。

さらに不思議なことが起きました。



彼には2人のお子さんがいます。

上の子が高校3年で、下の子が高校2年。

せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
私たちは思っていました。







でも彼は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。

そして、1か月ほどして亡くなりました。

彼が亡くなった後、
娘さんが私のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。



私たち医師は、
子供のために生きたいと言っている
彼の気持ちを大事にしようと思い、

彼の体調が少しよくなると
外出許可を出していました。

「父は家に帰ってくるたびに、
 私たちにお弁当を作ってくれました」

と娘さんは言いました。

彼の家は母親が頑張って働いて居たので、
せめてお弁当だけでも、と彼が作っていたのですね。



そして、彼が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態でした。

病院の皆が引き留めたんだけど、
どうしても行きたいと。

そこで私は、

「じゃあ家に布団を敷いて、
 家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」

と言って送り出しました。



ところがその日、
彼は家で台所に立ちました。

立てるはずのない者が最後の力を
振り絞ってお弁当を作るんですよ。

その時のことを娘さんは
このように話してくれました。



「お父さんが最後に作ってくれた
 お弁当はおむすびでした。

 そのおむすびを持って、
 学校に行きました。

 久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。

 昼の時間になって、
 お弁当を広げて食べようと思ったら、
 切なくて、切なくて、
 なかなか手に取ることができませんでした」



お父さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。

でも、命は長さじゃないんですね。

お父さんはお父さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。



『さかなクンのお話』



いじめられている君へ
広い海へ出てみよう



中一のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、
だれも口をきかなくなったときがありました。

いばっていた先輩が3年になったとたん、
無視されてたこともありました。
突然のことで、わけわかりませんでした。

でも、さかなの世界と似ていました。



たとえばメジナは海の中で
仲良く群れて泳いでいます。

せまい水槽に一緒に入れたら、
1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。

けがしてかわいそうで、
そのさかなを別の水槽に入れました。



すると、残ったメジナは
別の1匹をいじめ始めました。
助け出しても、
また次のいじめられっ子が出てきます。

いじめっ子を水槽から出しても
新たないじめっ子があらわれます。







広い海の中ならこんなことはないのに、
小さな世界に閉じこめると、
なぜかいじめが始まるのです。

同じ場所にすみ、
同じエサを食べる、
同じ種類同士です。

中学時代のいじめも、
小さな部活動でおきました。



ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」
ときけませんでした。

でも、仲間はずれにされた子と、
よくさかなつりに行きました。

学校から離れて、
海岸で一緒に糸をたれているだけで、
その子はほっとした
表情になっていました。



話を聞いてあげたり、
励ましたりできなかったけど、
誰かが隣にいるだけで
安心できたのかもしれません。

ぼくは、変わりものですが、
大自然のなか、
さかなに夢中になっていたら
いやなことも忘れます。

大切な友達ができる時期、
小さなカゴの中で
だれかをいじめたり、
悩んだりしても
楽しい思い出は残りません。



外には楽しいことが
たくさんあるのに
もったいないですよ。

広い空の下、
広い海へ出てみましょう。



2013年11月11日月曜日

『ガンが治るくすり』



クリスマスの数日前、6歳の息子さんが欲しいものをサンタへの手紙に記していました。ご両親は「何が欲しいのかなぁ」と手紙を開けます。するとその手紙には切ない息子の祈りが詰まっていました。


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6歳の息子がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと妻とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてありました。



「サンタさんへ おかあさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」



妻と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃいました。



昨日の夜、息子が眠ったあと、妻は息子が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておきました。



朝、息子が起きるとガッチャマンの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げていました。







早速朝食を食べる妻の元にどたばたと行って



「ねえ! サンタさんからお母さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」

といって、妻に薬を飲ませました。



妻が「体の調子が、だんだんと良くなってきたみたい」と言うと息子が、



「ああ! 良かった~。これでお母さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」

……というと



妻がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めました。



私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えました。



妻は息子には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしていました。

その後、息子が近所の子に家にガッチャマンの人形を持って遊びに行った後、妻が

「来年はあなたがサンタさんだね……。しっかり頼むね」と言ったので、

つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けてしまいました。



お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざりました。




『父の唯一の我侭』



就職活動で大変だった大学三年のある日、お父さんから唐突に沖縄旅行に誘われたのですが、「今は大事な時期だから」と断ってしまいます。が、その事を後日に後悔することに…。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「沖縄に行かないか?」

いきなり父が電話で聞いてきました。



当時、大学三年生で就活で大変な頃でした。
「忙しいから駄目」と言ったのですが父はなかなか諦めません。



「どうしても駄目なのか?」

「今大事な時期だから。就職決まったらね」

「そうか・・・」



父は残念そうに電話を切りました。急になんだろうと思ったが気にしませんでした。







それから半年後に父が死にました。癌でした。医者からは余命半年と言われてたらしいです。

医者や親戚には娘が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしいです。

父母私と三人家族で中学の頃、母が交通事故で死に、大変だったのに大学まで行かせてくれた父。

沖縄に行きたいというのは今まで私のためだけに生きてきた父の最初で最後のワガママでした。

叔父から父が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡されました。

パラパラとめくると写真が挟んであるページがありました。

絵日記には「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。

ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」



・・・というような事が書いてありました。



すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来ました。

私は大きくなったらお金を貯めて父を沖縄に連れていってあげる。というようなことをこの旅行の後、言ったと思います。

父はそれをずっと覚えていたのです。そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていました。

私は父が電話をしてきた時、どうして父の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。



もう恩返しする事が出来ない・・・

涙がぶわっと溢れてきて止められませんでした。




『学校に行きたい』



少女は病気の彼をうらやましく思っていました。理由はすぐに学校を早退できるからです。でも、彼の連絡帳を何気なく覘いたその時、少女は己の浅はかさを知ったのです。


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私が小学校5年生のとき、寝たきりで滅多に学校に来なかった男の子と同じクラスになりました。

その子、たまに学校に来たと思ったらすぐに早退するし、最初は



「あの子だけズルイなぁ・・・。」



なんて思ってました。

私の家、その子の家から結構近かったから私が連絡帳を届ける事になりました。



男の子のお母さんから連絡帳を貰って、先生に届けて、またお母さんに渡して・・・。

それの繰り返し。



「なんで私がこんな面倒臭い事しなくちゃいけないんだ!」

って、一人でブーたれてたのを良く覚えています。



そんなある日、私何となくその子の連絡帳の中を覗いてみました。

ただの興味本位だったんだけど。

連絡帳にはその男の子のものらしい豪快な字で、ページ一杯にこう綴られてました。



『今日もずっと家で寝てた。早く学校に行きたい。今日は窓際から男共の笑い声が聞こえてきた。学校に行けば、俺も輪に入れるのかな・・・。』



ショックでした。

学校行かないのって楽な事だと思ってたから。

ハンデがある分、ひいき目にされて羨ましいって思ってたから。







でも彼の文章には学校に行けない事の辛さ、普通にみんなと遊びたいって気持ちに溢れてて、なんだか私、普通に毎日学校に通ってんのが申し訳なくなって。

だから、連絡帳にこっそり書き込みました。



「いつでも、待ってるよ。体が良くなったら遊ぼうね!」

って。



でも次の日の朝、その子の家に行ったらその子のお母さんに

「もう、連絡帳は届けなくていいの。」

って言われました。

あまりにも突然でした。

私はその頃子供で、頭もあまり良くなかったのだけれど、その子のお母さんの言ってる意味は伝わってきました。



「この子は天国に行ったんだ。もう一緒に遊ぶ事は出来ないんだ・・・。」



そんな事考えたら涙が溢れて、止まらなくって・・・。

ずうっと泣き続けてた私に、その子のお母さんは連絡帳をくれました。

せめてあなただけは、学校にも行けなかったあの子を忘れないで欲しいって。



そんな私ももうすぐ30になろうとしています。

あの時の連絡帳は、引き出し下段の奥底にずっとしまったきりです。

就職したり、結婚したり、子供が出来たり・・・。

今まで、本当に色んな事がありました。

時には泣きたい事、辛い事の連続で、いっそ自殺しちゃおうかなんて思った事もありました。

けど、そんな時はいつも引き出しを開けて、男の子の連絡帳を開きます。

そして、彼が亡くなる直前に書かれた文章を読み返します。



『ありがとう、いつかきっと、遊ぼうね。』



2013年10月10日木曜日

『アルコールの匂いがする彼の日記』



幼馴染の彼は病気と戦っていました。
彼の入院費を稼ぐために働く両親の代わりに、彼女は必死で彼を支え、彼の孤独な病院生活に色を取り戻そうと頑張りました。


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わたしには幼馴染の男の子がいました。
小学校・中学校まで病気の為殆んど普通の学校に行けず、いつも院内学級で1人でいるせいか、人付き合いが苦手でわたし以外友達は居ませんでした。
彼の体調がよく外泊許可中は、いつもわたしが普通の学校へ送り迎いをして、彼の体調の変化に対応するようになっていました。



普通は親がやることですが、家が隣同士で、母親の職場が同じで家族ぐるみの付き合いをしていたので、彼の母親はわたしに絶対的な信頼を寄せていたんだと思います。(彼の入院費を稼ぐ為に働いて、彼自身をおろそかにしなければならないと言う、矛盾した悲しい現実もありました)。



わたしはそんな信頼に答えるように幼いながらの正義感を持っていて、学校で茶化される事がありましたが、それは自分に与えられた責任が果たせていると言う確認でしかありませんでした。



彼は人工透析以外普通の学生生活を送ろうと、懸命で体調さえよければ雨の日や雪が降るような寒い時でも、中学生とは思えない華奢な肩を震わせて学校に行きました。



そんな彼のがんばりで、高校進学の出席日数は普通の学校と院内学級を合わせて何とか間に合って (実際は足りなかったが意欲有りで認められた) わたしが合格した高校の2次募集を受験して、補欠ながら何とか合格して、いつもふさぎがちな彼の表情は輝いていていました。
これは高校合格だけでは無く、 体調が安定してきて外泊許可が長くなったのもあると思います。
彼にとって今全てが動き始めました。



彼の高校合格の日、両家合同でちょっとした合格パーティーが行われて、彼の母親がわたしの手を泣きながら握って何度も何度もお礼をして、わたしは苦笑いするしかなく彼も恥ずかしそうに笑っていました。



そこまで感謝されているのは嬉しかったですが微妙な違和感がありました。



彼が寝付いた後話を聞いたら、彼の病気は内臓、とりわけ腎臓が殆んど機能しておらず、医者からは10歳まで生きられないと言われていたと言うのです。
腎臓に障害があるのは、話や人工透析中の様子を見てきたから既に知っていたが寿命の事は知りませんでした。



入学までの約1ヶ月間毎日のように2人で過ごして、ごく普通の生活 ごく普通の時間を過ごしていて、いっしょにテレビを見ていても彼は幸せそうでした。
考えてみればこんな時間の過ごし方は数ヶ月前ではとても考えられない、彼にとっては病室で1人で過ごすのが普通なのですから。



それに気が付いた日わたしは泣きました。
 彼にとっての日常が病院で1人きりで非日常が家、しかも、家に帰っても入院費を稼ぐ為に家族は誰も居ないのです。



この頃からわたしは責任から義務へ彼を絶対に守ると決意したと思います。



しかしそんな決意も脆くも崩れ去りました。
いつも通りいっしょにテレビを見てトランプで遊んで、お昼に病院から宅配されたごはんを食べていたら、彼は嘔吐し気絶してしまったのです。
救急車が来るまで洋服や口の周りを拭いて、ソファーに移動させようと抱きかかえましたが、驚愕しました。
軽い軽すぎる、まるで内蔵の無い人間を抱きかかえているようでした。
結局彼はそのまま入院し、高校は休学しました。



彼の日常に戻っていきます。



今までの入院中の面会は4日に1回程度で人工透析のある日は行きませんでした。
でも、あのころは毎日のように彼の病室を訪ねて、人工透析後の虚脱感で彼が寝ていても、面会時間いっぱいまで本を読んだり勉強をして過ごしていました。
透析が無い日は学校の話・友達の話・テレビの話どうでもいい話を、面会時間ぎりぎりまで話して、本が欲しいと言えば直ぐ買ってきて、大きめの鏡が欲しいと言えば1番高い物を持って行き、彼の日常が無邪気な笑顔が充実するように努めました。



そんなある日、日曜日に面会に行こうとしたら 彼の両親からいっしょに行こうと電話があり、彼の要望のクシを購入して行きました。
クシの入った可愛らしい袋はちょっと恥ずかしかったので、彼のお母さんに持ってもらい病院に行きました。
彼の両親は担当医に挨拶をすると言い、わたしは先に彼の病室に歩き出しました。
しかし、クシの事を思い出し彼の両親が入っていきました。
部屋に行き様子を伺おうと少し開いているドアから覗き込むと 上気した感じで担当医と話していて、その内容が聞き取れました。



「あと、半年の命です」



中に居た看護婦さんが泣き声に気が付いて、わたしを中に入れて椅子に座らせてくれました。
担当医から告げられる言葉は全てが虚しく、何を喋っていたのか余り覚えていません。


覚えているのは
「半年の命、先天性腎機能障害・移植は合う人が居ない。人工透析の副作用・入院中の吐血。人間として迎えさせる」
担当医の話が終わり彼の母はショックが大きく、とても今日は会えないと言い、クシの入った袋を渡して帰っていきました。



わたしも今自分の顔がどんな表情をしているか分かるから、 彼に絶対悟られたくないから、数時間気持ちを落ち着けてから彼の病室に向かった。



病室に入ると彼は無邪気な満面の笑みで迎えてくれて、 クシに気が付くと更に笑顔を輝かせていました。
室内は夕焼けのわたしンジで溢れていて、わたしは死をイメージしてしまい目が熱くなるのを感じて、クシを渡し棚の上にある鏡を渡して窓際に移動して顔を背けながら話しました。



流石にずっと背を向けて喋ると悟られそうで無理して振り向くと、彼はクシで髪形を7・3にしたり9・1にしたり、髪で遊ぶのに夢中で少しほっとしました。
彼の枕元を見ると参考書が置いてあり、色々書き込みがされていて、聞くと「時間いっぱいあるし、復学したらテストでトップを取るんだ」と照れくさそうに笑っていました。



それから少し喋ると直ぐに面会時間になり、帰りました。



夕焼けが町を包む、彼の黄昏





「時間いっぱいあるし・・・」



家に帰ると彼の両親がわたしの両親に病状を話していました。
彼の両親はとても落ち着いていて、わたしの両親が泣きじゃくっていて逆に励まされていました。
わたしはムカついて冷蔵庫から牛乳を取り出し、一気に飲み干してそのまま寝ました。



次の日から彼の母は勤務日数を減らして1日中病院に居る日が多くなり、わたしがムカついていたことは馬鹿だと思いました。
元々医者から10歳までしか生きられないと聞かされていた彼の両親は、とうの昔に覚悟を決めていたんだろうと。



ですが、両親が見舞いに来る日が多すぎて、流石に悟られてしまうと担当医から注意を受けていました。
今日も面会に行くと笑顔で迎えてくれました。学校の話・テレビの話・仕入れた面白い話をひと通り話して、久しぶりに勉強を教えようと大量の本がある棚から彼のノートと参考書を取り出して、何処まで進めたのかノートを見ました。



しかしそこには勉強の跡は無く、日記が書かれていました。
その後直ぐに彼に取り上げられて、内容は余り覚えていませんが1日分の日記が1ページ程使って書かれていました。



「まだ、見ちゃ駄目」



日記を書くと考えがまとまって、気分がいいらしいのです。
その事を褒めてあげていると、急に彼の顔が苦痛に歪んで胸を押さえました。
何かまずい事を言ったのかと思いましたが、それは違い、急いでナースコールを押して看護婦さんを呼びました。
直ぐに安定しましたが看護婦さんに呼ばれ別室で話を聞いた。
腎臓障害が心臓に影響しはじめて不整脈が起こりやすい事、もう時間が無い事 人間として最後を迎えさせる事。



わたしは忘れてはいなかったが、あえて考えないようにしていたのかもしれないです。彼の時間が迫っていることを。



その後面会謝絶になり、2日程逢えなませんでしたが直ぐに逢えるようになりました。



わたしはいつも通り毎日学校帰りに面会に行きました。
彼の無邪気な笑顔を作る為に、ノックをすると返事があり、今日も大丈夫だ。
ドアを開けると黄昏に染まった病室でわたしに背を向けて、夕焼けに染まった町を眺めていました。
その横に静かに座りわたしも黙って見ていました、窓に反射している彼の顔を、彼もそれに気が付いたのか照れくさそうに笑って話し出した。



「いつも来てくれてありがとう。もう大丈夫だから」



ひっかかる事がありましたが、気にするなと言って、窓に反射している彼の顔を見つめました。
ふと、部屋の中を見渡すと本棚にあった大量の本が、数冊を残して空っぽになっていました。
聞くと、片付ける時、お母さんが可愛そうだと笑って言いました。
彼はいつもの無邪気な笑顔では無く、悟った様なやさしい笑顔でした。



不意に目が熱くなり、トイレに行って来ると言い訳してその場を離れようとすると、彼の母親と入れ違いになり、わたしは顔を隠すように軽く会釈をして出て行きました。
病室から彼のビックリしたような声が聞こえました。
どうやら外泊許可が下りたようで、どんな顔で喜んでいるのか見たかったのですが、既に逢えるような顔ではありませんでした。



・日記を書くと考えがまとまって、気分がいいらしい。
・「いつも来てくれてありがとう。もう大丈夫だから」
・整理された本棚 悟った様なやさしい笑顔。



彼は既に知っている、もう時間が無いことを、、。



最後の外泊許可で帰ってきた日は両家で食事会が開かれました。
食事制限が厳しいながらも母親たちが、がんばって作った料理が食卓に並びます。
誰かがちょっとでも予感させる事を言えば、その場で食卓は凍りつきます。
そんな雰囲気で、会話は交わされていました。


普通の話でも大げさに笑い、リアクションも大げさでした。
わたしも嫌いではない胡麻和えを嫌いと言い、話を盛り上げようとがんばりました。
彼を見ると、両親たちに向けて、また無邪気な笑顔で笑っていました。
両親たちとわたしに向ける笑顔を使い分けて。



問題なく食事会は終わり、帰ろうとすると彼に呼び止められお礼を言われました。


「付き合ってくれてありがとう。」


意味は分かっています。



7月に余命を宣告されて、今は12月。
最後の外泊許可を貰った彼に会いに行く。



病室で見る笑顔より輝いていたのがすぐにわかりました。
外泊許可を貰っても、免疫力の落ちた彼を人ごみに連れて行く訳にはいけないので、近くの森林公園に行くことが多かったです。



森林公園と言っても中にはちょっとした博物館や美術館があるのです。
16歳の普通の男の子なら退屈で悪態をつかれそうですが、何も知らない彼はニコニコして楽しそうにしていました。
今日の彼はよく喋りました。
幼稚園の頃の話・2人で行った映画の話・体調の安定していた頃の通学中の話。
わたしは何となく覚えていましたが、彼は細かく詳細に覚えていて、驚かせる。
不意に黙った彼を見ると、 白すぎる頬を赤らめ目に涙を貯めて、わたしに感情を爆発させました。



「まだ死にたくない」



わたしはたまらずゾッとするほど華奢な彼を抱きしめました。
何て言えばいいのか、馬鹿なわたしには分からずただ抱きしめてキスをしました。



「ありがとう」



長期外泊許可が終わった今日、彼は帰っていきます。
その後、彼の体調は緊張の糸が切れたように日に日に状態が悪くなる一方でした。



今彼の覚醒時間は短い、あらゆる激痛が彼を襲い、それを和らげる為にモルヒネが使われているのです。
ちょっとした風邪でも肺炎に進行し後が無い、 感染症・合併症・言葉で表すのは簡単ですがが、現実は想像を絶します。



念入りに消毒して黄昏さえない彼の無菌室に行きます。
彼の顔は浮腫んでやっと高校生らしい感じになっていました。
荒い息使いで額にうっすら汗が出ていて、透明なビニールのカーテンを開けて拭いてあげます。
不意に彼は目を開け笑顔にならない表情を見せまた眠りにつきました。



その日の夜、病院から電話がありました。
彼が移された病室には、今まで見たことのない親戚と無数の機械、枕元には彼の両親が立っていました。
彼は虚ろな目で来てくれた人にお礼をしてました。
モニターを見ていた医者に促された彼の両親は、わたしを枕元に手招きしました。
彼の手を握って話す、痛みは?苦しくない?寒くない?ゆっくり話しました。
彼は後で日記を見てねと言って、日記を出して穏やかな笑顔を見せました。



「俺、がんばったよな?」

「うん」



彼は早朝に亡くなりました。



アルコールのニオイがする彼の日記には色々な事が書いてありました。
わたしが話した学校の話・友達の話・テレビの話どうでもいい話。
まるで、書きもれるのを恐れている様に細かく書いてありました。
その時のわたしの表情といったらもう、、、。



2ページ程の空白あと、彼の感情がぶつけられていました。
文字にならない文字で吐血の事・胸の痛みの事、既に文字ではなかったが彼の気持ちが分かる様なきがします。
夜中の病室で1人、孤独と不安と戦っていたんでしょう。



その後何事も無かったように最後の外泊許可の日々まで書かれていました。
そして最後のページには1文だけ書かれて終わっていました。



「今日キスをした、もう怖くない・・・愛してます」




『赤ちゃんが生まれる時』



赤ちゃんを産むとき、陣痛というものがあります。
陣痛は、初産で約24時間、2人目以降で約12時間続くものらしいです。

妊婦さんの中には、この陣痛がとても苦しいので
「産む側は大変、赤ちゃんは生まれてくる側でいいなぁ」
と言う方もいるらしいです。

しかし、助産師さんは、これは大きな勘違いだと言います。
赤ちゃんの方が、妊婦さんの何倍も苦しいのだと。



実は、子宮は筋肉であり、これが収縮したり緩んだりするのが、陣痛の正体らしいです。

陣痛が始まり、子宮が収縮すると、赤ちゃんは首のところを、思い切り締め付けられ、へその尾からの酸素が途絶え、息ができなくなるそうです。



子宮の収縮は約1分間。
その間思い切り首を締められ、息ができない。

1分たてばまた子宮はゆるむが、また陣痛が来れば1分、息ができなくなる。
しかも陣痛の間隔はだんだん狭くなる。
この陣痛に耐えられなければ、赤ちゃんは死ぬ。



まさに命懸けです。
だからこそ、赤ちゃんは慎重なのだといいます。






実は、陣痛がおこるためには、陣痛をおこすホルモンが必要らしいのですが、このホルモンを出しているのは、お母さんではなく、なんと赤ちゃん自身なのです。

赤ちゃんはとても賢く、自分自身で自分が、今陣痛に耐えられる体かを判断しています。

そして、一番いいタイミングで、自分の生まれてくる日を選んでいます。



また、急に激しい陣痛を起こせば命が危いので、最初は陣痛を起こすホルモンを少ししか出さず、様子を見てホルモンの量を調整するらしいです。

赤ちゃんの中には、予定日を過ぎても、なかなか生まれてこない赤ちゃんもいます。
途中で陣痛を止める赤ちゃんもいます。



そういう赤ちゃんを
「うちの子はノンビリしてる」
なんていうお母さんもいるけど、そのとき赤ちゃんは必死なんだといいます。

生まれて来ないのは、赤ちゃんが
「今の体では陣痛に耐えられず死んでしまう」
と判断しているからだそうです。



赤ちゃんはみんな、自分で判断して、自分の意志で生まれてきます。

「生まれたくて生まれたんじゃない」なんて人はいないのです。




2013年10月9日水曜日

『おばあちゃんのプロポーズ』



わたしのおばあちゃんは、某有名大学出身でとても頭も賢く、運動神経も抜群で、小さい頃はよく勉強やスポーツなど、色々とおばあちゃんに教えてもらっていました。

そんなおばあちゃんが大好きで尊敬していたし、誇りでもありました。

ですが、今はおばあちゃんに勉強を教えてもらっていません。



正確に言えば、教えてもらう事ができなくなってしまいました。

わたしが高校2年生の頃、おばあちゃんは痴呆症になってしまったのです。

今では、わたしの事も、実の娘のわたしの母親も分からなくなってしまって、いつもわたしたちに、「初めまして」とあいさつをしてきます。



唯一、旦那さんであるわたしのおじいちゃんの事は分かっているみたいだったけど、ここ最近になって、おじいちゃんの事も分からなくなってしまいました。

ですが、おじいちゃんは毎日笑顔で、懸命におばあちゃんの世話をしていました。





今年の年初め、家族みんなで集まって家でごはんを食べようとなり、久々に家族全員で集まることになりました。



家族の誰一人分からなくなってしまって、とても緊張をしているおばあちゃんに、おじいちゃんが笑顔で家族のみんなを紹介していきました。

すると、いきなり、おばあちゃんは真剣な顔をして、おじいちゃんに向かってこう話しをしたのです。



「あなたは、本当に素敵な方ですね。

いつも素敵な笑顔で、わたしに笑いかけてきてくれる・・・

あなたが笑ってくれたら、わたしはとても幸せな気持ちになれます。

もし、独り身なら、わたしと結婚してくれませんか?」



家族全員の前でのプロポーズでした。



おばあちゃんの逆プロポーズに、涙をぽろぽろこぼしながら、おじいちゃんは笑顔で、「はい」と答えました。




『人生のいろいろ』



交通事故をきっかけに、お母さんが鬱になってしまいました。
頼れる者もない状況の中で、受験を控えた中学3年生の娘さんが、辛い日々の様子やお母さんへの想いを語りました。


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文へたくそだけどよかったら読んでください



わたしが中3の時の話



元々母さんは精神病を患ってました。
でもわたしが生まれる何年も前に、ほとんど完治してたらしくて、わたしは全然病気の心配何かしてませんでした。



そんなある日、母さんが事故にあいました。
どうやら曲がり角のところで車に跳ねられたらしいです。
幸い命に別状はなかったのですが、右腕と右足がほとんど動かなくなり、さらに動くと首にも激痛が走るらしかったです。
元々活発だった母は、動いたり外に出ることができなくなって、段々うつ状態になっていきました。



そして、治っていたはずの病魔がだんだんと動き始めました。



そん時は地獄のようでした。
わたしが今まで見たこと無い母さんが現れるんです。



毎日毎日、その日によって性格が変わるんです。
暴れだしたり、かと思えば泣きだしたり、わたしに暴言をはいたり…帰ってきたら母さんが首に縄巻いてるんです…

包丁持ってたり、わたしに包丁つきつけて
「一緒に死のうか…よしえちゃん…」
って言ったこともありました。



ホントに辛かったです。



父は父で仕事が忙しくて、ほとんど海外にいました。
頼れる親戚も兄弟もいませんでした。おまけにわたしは受験でした。
いろんな不安で心が押しつぶされそうになりました。





これはさすがに家族には手に負えないってなって、精神病院に入院することになりました。
入院先は閉鎖病棟。
面会に行った時、閉鎖病棟の隅っこで小さくなってわたしの名前を泣きながら叫んでる母さん見たときはホントに泣きそうになりました。



すこしだけど良くなって、母さんが家に戻ってきました。
叫んだりはしなくなったけど、こんどは記憶の感覚がごちゃまぜになりました。
中3のわたしが2歳になったり、8歳になったり、時には死んだ母さんの弟になったり…



それでも行動的なところだけは昔のままで、歩けないのに歩こうとして転んで血を流すなんてしょっちゅうでした。
普通ならわたしがどうにかしなきゃいけないんだけど、どうしても勉強で忙しくて、見て見ぬふりしてました…



入試前日、わたしが学校から帰ってくると、母さんがいろんなところに擦り傷作って台所に横になっていました。
足もとには大きな買い物袋… どうやら買い物行って来て、そこらじゅうで転んで擦り傷作ったらしいです。



色んなとこから血出しながらサンドイッチ作ってたんです。
わたしが小さい頃一番好きだった母さんのサンドイッチ



「よしえちゃん喜ぶかな? よしえちゃん…よしえちゃん…」
って泣きながらわたしの名前呼んでました…



「明日は一緒に、お出かけしようね」とか、「明日は運動会だね」とか色々言ってました。
なぜか知らないけど明日は特別な日ってことだけは知ってんだな…
とか思いながら、



そしたら急に泣き出してこう言いました。



「よしえちゃん… お母さんはどうなっちゃうんだろ… よしえちゃん…よしえちゃん…」
ず~っとわたしの名前を呼ぶんです。 立ってるのも辛いはずなのに、泣きながら…



ホントに切なかった。



次の日、母さんのサンドイッチを持って入試に行きました。
昼飯食った後の5時間目の社会。
なんでかわかんないけど眠くなっちゃって、一問も解かずに眠っちゃっいました。



そん時見た夢はいまでも覚えてる。

わたしが母さんに抱きしめられてた夢だった。



『本当は辛かったおばあちゃん』



実家で暮らすおばあちゃんから、電話がかかってきました。
いつもは仕事で忙しくしている僕を気遣ってあまり電話をかけてきません。

たまに僕からかけても、
「しんちゃん電話代かかってまうではよ切るでな」
って言って気を使ってくれます。

そんなおばあちゃんから
久しぶりに電話がかかってきました。
「しんちゃん元気か、ちゃんとご飯たべとるか」
って。

「元気だよ、ちゃんとご飯食べとるで大丈夫」



僕の声を聞いて、
おばあちゃんの話す電話の声が震えだしました。

僕にできる事は、
「大丈夫だよ、元気だよ」って
繰り返し答える事だけでした。

そうしたら、
泣きながら話すおばあちゃんが、一言、
「母さんもねえちゃんも喋ってくれんで
ばあちゃんさみしいんやわ」
って漏らしました。



普段から会話のない家族ではありますが、
おばあちゃんがそのさみしさを
はっきりと言葉にするのを聞いたのは初めてでした。





3年前におじいちゃんが
亡くなってからはいつも家でひとり。

話し相手もいなくて、
寂しさを紛らわすかのように
いつもテレビの前に座ってました。

きっと、
寂しさがこらえきれなくなって
僕に電話をかけてきたんだと思いました。



大切な人が、
さみしい時に側にいてあげられない事が
辛かったんです。

おばあちゃんの寂しさには気づいていたのに、
おばあちゃんが僕に頼ってこない事に甘えて、
仕事を言い訳にして、
おばあちゃんの心のケアを
怠っていた自分が情けなくなりました。



「まぁ、大丈夫やろ」っていう
勝手な思い込みは
ただの自分を守る言い訳でしかなくて、
手遅れになってから、気づいた時には
取り返しがつかなくて。

そんな事にならないように、
これからもっともっと家族とのつながりを
大切にしていこうと思いました。

明日、おばあちゃんに電話をかけてみる。
「おばあちゃん、今度一緒に温泉いこう!」
って。




『医者になる決意』



高校1年の夏休み、両親から「大事な話がある。」と

居間に呼び出されました。



お父さんが癌で、もう手術では治りきらない状態であると。



暑さとショックで、頭がボーっとしてて、

変な汗が出たのを憶えています。



当時、うちは商売をしていて、借金も沢山ありました。

お父さんが死んだら、高校に通えるわけがない事は明白でした。

そしてわたしはお世辞にも優秀とはいえませんでした。

クラスでも下位5番には入ってしまう成績でした。



その夏から、お父さんは、抗がん剤治療を開始し、

入退院を繰り返していきました。

メタボ体型だったお父さんが、みるみる痩せこけていきました。



母親の話では、主治医の見立てでは、

もって1-2年だろう、という事でした。

ただ、お父さんは弱音を吐く事はありませんでした。



お父さんは

「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」

って言ってました。



仕事もやりながら、闘病生活を続けていました。



わたしといえば、目標も特になく、

高校中退が頭にチラついて勉強は進みませんでした。

ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていました。

せめてお父さんを安心させるためだったと思います。



だから、その後の成績も、

とても期待に添えるものではありませんでした。



ただ、お父さんの

「高校、大学はなんとかしてやる」

の言葉が、重かったです。



「おまえ、将来、何かやりたい事はないのか?」

高校2年の冬、痩せこけたお父さんに問いかけられました。






わたしは、期末テストで学年ビリから2番をとり、

担任からも進路について厳しい話をされていました。

言葉もないわたしに、怒ったような泣いたような顔でお父さんは言いました。




「・・・ないなら、、医者になれ! 
・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」




上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれました。

自分への情けなさとか、怒りとか、

色々混じったものが込み上げてきました。



その時、お父さんには返事を返す事はできませんでしたが、

わたしは決意しました。
それから、猛烈に我武者羅に勉強しました。



高校3年の夏、お父さんは亡くなりました。



お父さんは、闘病生活の2年間で借金を整理し、

わたしの高校の学費をなんとか工面したそうです。

お父さんのおかげで、高校卒業できました。



そしてありがたい事に、1年間の浪人生活を経て、

わたしは地方の国立大学の医学部に合格しました。



わたしは今、癌専門治療医として働いています。



お父さんは、

「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」と

母に言ってたそうです。



まだ、お父さんの癌を治す力はありませんが、日夜頑張っています。



いつか、お父さんの癌を治せるように。




『「島歌」の本当の意味』



あの有名なTHE BOOMの「島唄」は、
ボーカルの宮沢和史さんが作詞と作曲をしました。

この曲は、THE BOOMはもちろん、
90年代前半の
日本音楽シーンを代表するものとなりました。



この「島唄」の歌詞の意味を知っていますか?
単なる失恋ソングかと思っていましました。

とある事から、歌詞の意味を知って、
とにかく深い曲なんだと再評価しました。

このバンドがいまだに
カリスマ的な人気を誇る意味がわかります。
とにかく深いです。



私は、あの戦争を
美化するつもりはありませんが、
忘れてはいけない事もたくさんあると思います。
歌の力がとても深く響きましました。




『島唄』

でいごの花が咲き
風を呼び 嵐が来た

(災厄を告げるという でいごの花が咲き、
(1945.4.1)沖縄本島に米軍が上陸しました)

でいごが咲き乱れ
風を呼び 嵐が来た
繰りかへす哀しみは 島わたる 波のよう

(でいごが咲き乱れる1945.4-6月に、
 寄せ引く波の様に、殺戮は繰り返された)

ウージぬ森で あなたと出会い
ウージぬ下で 千代にさよなら

(サトウキビ畑であなたと出会い
 (ガマ)鍾乳穴の防空壕で
 君が代にいう永久の御代との別れ)

島唄よ 風にのり
鳥と共に 海を渡れ
島唄よ 風にのり 
届けておくれ わたしぬ涙

(島唄よ 風にのり
 しびとの魂(鳥)と共に 海を渡れ
 島唄よ 風にのり 
 本土に伝えておくれ、沖縄の悲哀を)

でいごの花も散り
さざ波がゆれるだけ
ささやかな幸せは うたかたぬ波の花

(でいごの花も散る1945.6.23に
 戦闘も終わり、宝より大切な命が散り、
 生き残っている者もあまりいない
 日常生活は、簡単に消え去った)





ウージぬ森で うたった友よ
ウージぬ下で 八千代ぬ別れ

(さとうきび畑で謡いあったあの人は
 防空壕の中で、戦闘によって死んだ)

島唄よ 風に乗り
鳥とともに 海を渡れ
島唄よ 風に乗り
届けておくれ 私の愛を

(沖縄の思いよ、風に乗って
 魂と共に、海を越えて
 (あの人の居るニライ・カナイ=天国へ)
 島唄よ 風に乗り
 (ニライカナイへ)届けておくれ 私の愛を)

海よ
宇宙よ
神よ
いのちよ
このまま永遠に夕凪を

(海よ
 宇宙よ
 神よ(豊穣をもたらす)
 いのちよ(何物にも代え難い命という宝よ)
 このまま永遠に夕凪(平和)を(祈る))



朝日新聞に宮沢和史さんの
コラムが掲載されていたようです。

引用させていただきます。



『島唄』は、
本当はたった一人のおばあさんに
聴いてもらいたくて作った歌です。

91年冬、
沖縄音楽にのめりこんでいたわたしは、
沖縄の『ひめゆり平和記念資料館』を初めて訪れました。

そこで『ひめゆり学徒隊』の
生き残りのおばあさんに出会い、
本土決戦を引き延ばす為の
『捨て石』とされた激しい沖縄地上戦で
大勢の住民が犠牲になった事を知りました。



捕虜になる事を恐れた
肉親同士が互いに殺し合う。

極限状況の話を聞くうちにわたしは、
そんな事実も知らずに生きてきた
無知な自分に怒りさえ覚えました。

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の
中にいるような造りになっています。

このような場所で集団自決しました
人々の事を思うと涙が止まりませんでした。



だが、その資料館から一歩外に出ると、
ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れています。

この対比を曲にして
おばあさんに聴いてもらいたいと思いました。



歌詞の中に、
ガマの中で自決しました2人を歌った部分があります。

『ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら』という下りです。

『島唄』はレとラがない沖縄音階で作られましたが、
この部分は本土で使われている音階に戻しました。



2人は本土の犠牲になったのだから。



『あなたは素晴らしいんだから』



わたしが3歳の時、父が亡くなり、
そのあとは母が女手一つでわたしを育ててくれた

仕事から帰ってきた母は疲れた顔も見せずに、
晩ごはんを作ってくれた。

晩ごはんを食べた後は内職をした。
毎晩遅くまでやっていた。



母が頑張ってくれていることは
よく分かっていた。

だけど、わたしには不満もいっぱいあった。

わたしが学校から帰ってきても
家に誰もいない。



夜は夜で母は遅くまで内職。
そんなに働いているのに、
我が家は裕福ではなかった。

遊園地にも連れて行ってもらえない。
ゲームセンターで遊ぶだけの
小遣いもくれない。



テレビが壊れた時も半年間かってもらえなかった。

わたしはいつしか母に強く当たるようになった。

「おい」とか「うるせー」とか
生意気な言葉を吐いた。

「ばばあ」と読んだこともあった。



それでも、母はこんなわたしのために
頑張って働いてくれた。

そして、いつもわたしに優しかった。

小学校6年の時、初めて運動会に来てくれた。
運動神経の鈍いわたしは、かけっこでビリだった。
悔しかった。



家に帰って母はこう言った。
「かけっこの順番なんて気にしなくていい。
あなたは素晴らしいんだから」
だけど、
わたしの悔しさはちっともおさまらなかった。

わたしは学校の勉強も苦手だった。
成績も最悪。
自分でも劣等感を感じていた。

だけど、母はテストの点や通知表を
見るたびにやっぱりこう言った。



「大丈夫。あなたは素晴らしいだから」

わたしには何の説得力も感じられなかった。
母に食ってかかったこともあった。

「何が素晴らしいんだよ。どうせわたしはダメ人間だよ」
それでも母は自信満々の笑顔で言った。



「いつか分かる時が来るよ。
あなたは素晴らしいだから」

わたしは中学2年生になったころから、
仲間たちとタバコを吸うようになった。

万引きもした。
他の学校の生徒とケンカもした。
母は何度も学校や警察に呼び出された。

いつも頭を下げて、
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」
と謝った。



ある日のこと。

わたしは校内でちょっとした事件を起こした。
母は仕事を抜けて学校にいつものように謝った。

教頭先生が言った。
「お子さんがこんなに
“悪い子”になったのはご家庭にも
原因があるのではないですか」



その瞬間、母の表情が変わった。
母は、明らかに怒った目で教頭先生を
にらみつけてきっぱりと言った。

「この子は悪い子ではありません」
その迫力に驚いた教頭先生は言葉を失った。

母は続けた。
「この子のやったことは間違っています。
親の私にも責任があります。
でも、この子は悪い子ではありません」

わたしは思い切りビンタを食らったような
そんな衝撃を受けた。



わたしはわいてくる涙を抑えるのに必死だった。
母はこんなわたしのことを本当に
素晴らしい人間だと思ってくれていたんだ…

あとで隠れてひとりで泣いた。

翌日からわたしはタバコをやめた。
万引きもやめた。
仲間たちからも抜けた。

その後、中学校を卒業したわたしは
高校に入ったが、肌に合わなくなって
中退した。





そして、仕事に就いた。
そのときも母はこう言ってくれた。
「大丈夫。あなたは素晴らしいんだから」

わたしは心に誓った。

「これからわたしが頑張って
お母さんに楽してもらうぞ」



だけど、なかなか仕事を覚えられなくて、
よく怒鳴られた。

「何度同じことを言わせるんだ!!」
「少しは頭を働かせろ!」
「あなたはホントにダメなやつだな!!」

怒鳴られるたびに落ち込んだけど、
そんなときわたしの心には母の声が聞こえてきた。



「大丈夫。あなたは素晴らしいのだから」

この言葉を何度もかみしめた。
そうすると、元気がわいてきた。

勇気もわいてきた。

「いつかきっとわたし自身の素晴らしさを
証明してお母さんに見せたい」

そう考えると、わたしはどこまでも頑張れた。



仕事を始めて半年くらい経った時のことだ。
仕事を終えて帰ろうとしていたら
社長がとんできて言った。

「お母さんが事故にあわれたそうだ。
すぐに病院に行きなさい」

病院に着いた時母の顔には
白い布がかかっていた。



わたしはわけがわからなくなって何度も
「お母さん!」
と叫びながらただただ泣き続けた。

わたしのために身を粉にして働いてくれた母。
縫い物の内職をしているときの
母の丸くなった背中を思い出した。

母は何を楽しみにして頑張って
くれてたんだろう?
これから親孝行できると思っていたのに。
これから楽させてあげられると
思っていたのに。



葬式の後で親戚から聞いた。
母が実の母ではなかったことを。

実母はわたしを産んだ時に亡くなったらしい。
母はそのことをいつか
わたしに言うつもりだったんだろう。

もしそうなったらわたしはこう伝えたかった。
「血はつながっていなくても
お母さんはわたしのお母さんだよ」



あれから月日が流れ、わたしは35歳になった。

今改めて母にメッセージを送りたい。

お母さん
わたしとは血がつながっていなかったんだね。
そんなわたしのために昼も夜も働いてくれたね。
そして、お母さんはいつも言ってくれた。

「あなたは素晴らしいんだから」

その言葉はどんなにわたしを救ってくれたか。
どんなにわたしを支えてくれたか。
あれからわたしなりに成長して、
今は結婚して子どももいるよ。



規模は小さいけど、
会社の社長になって社員たちと
楽しくやっているよ。

まだまだ未熟なわたしだけど、
わたしなりに成長してきたと思う。

その成長した姿をお母さんに見せたかったよ。

「あなたは素晴らしい」
と言ってくれたお母さん。



その言葉は間違っていなかったっていう
証拠を見せたかった。
そして、
それを見せられないことが残念でならなかった。

だけど、最近気づいたんだ。

お母さんは最初から
わたしの素晴らしさを見てくれてたんだね。



証拠なんてなくても心の目で
ちゃんと見てくれてたんだね。

だって、お母さんが
「あなたは素晴らしいんだから」
って言う時はまったく迷いがなかったから。

お母さんの顔は確信に満ちていたから。

わたしも今社員たちと接していて、
ついついその社員の悪いところばかりに
目が行ってしまうことがある。



ついつい怒鳴ってしまうこともある。
だけど、お母さんの言葉を思い出して、
心の目でその社員の素晴らしさを
見直すようにしているんだ。

そして、心を込めて言うようにしている。
「きみは素晴らしい」

おかげで、社員たちといい関係が築けて、
楽しく仕事をしているよ。



これもお母さんのおかげです。

お母さん
血はつながっていなくても、
わたしの本当のお母さん。

ありがとう。



2013年10月2日水曜日

『サイン帳の話』



「サイン帳の落とし物はないですか??」

インフォメーションセンターにひとりのお父さんが元気なく入ってきました。

落としたサイン帳の中身を聴くと、息子さんがミッキーやミニーに一生懸命に集めたサインがあともう少しでサイン帳一杯になるところだったそうです。



でも、残念ながらインフォメーションセンターには、サイン帳は届けられていませんでした。・・・・・

キャストはサイン帳の特徴を詳しく聴いて、あちこちのキャストに連絡を取ってみました。



しかし、見かけたキャストは誰一人としていませんでした。

「お客様、申し訳ございません。まだ見つからないようです。お客様はいつまで滞在されていますか??」

と伺ったところ、お父さんが言うには、2日後のお昼には帰らなければならないとのこと。・・・



「手分けして探しますので、2日後、お帰りになる前にもう一度インフォメーションセンターに立ち寄っていただけますか??」

と笑顔で声をかけたそうです。



そして、お父さんが帰られた後も、細かな部署に電話をかけて聴いてみたり、自分の足で探しにも行ったそうです。

ところが、どうしても見つけ出すことができず、約束の2日後を迎えてしまいました。


「見つけることができませんでした。申し訳ございません」

「代わりにこちらのサイン帳をお持ちください」


それは、その落としたサイン帳と全く同じサイン帳を自分で買って、いろんな部署を回って、全てのキャラクターのサインを書いてもらったものを手渡したんです。

お父さんがビックリして、喜ばれたのは言うまでもありません。



後日、ディズニーランドにこのお父さんから、一通のお手紙が届きました。

先日は「サイン帳」の件、ありがとうございました。

実は連れていた息子は脳腫瘍で、「いつ死んでしまうか分からない」…そんな状態のときでした。





息子は物心ついたときから、テレビを見ては、

「パパ、ディズニーランドに連れて行ってね」

「ディズニーランドに行こうね」

と毎日のように言っていました。



「もしかしたら、約束を果たせないかもしれない」…そんなときでした。



「どうしても息子をディズニーランドに連れていってあげたい」

と思い、命があと数日で終わってしまうかもしれないときに、無理を承知で、息子をディズニーランドへ連れて行きました。



その息子が夢にまで見ていた大切な「サイン帳」を落としてしまったのです。



あのご用意いただいたサイン帳を息子に渡すと、

「パパ、あったんだね!パパ、ありがとう!」

と言って大喜びしました。



そう言いながら息子は数日前に、息を引き取りました。



死ぬ直前まで息子はそのサイン帳を眺めては、

「パパ、ディズニーランド楽しかったね!ありがとう!また行こうね」

と言いながら、サイン帳を胸に抱えたまま、永遠の眠りにつきました。



もし、あなたがあの時、あのサイン帳を用意してくださらなかったら、息子はこんなにも安らかな眠りにつけなかったと思います。

私は息子は「ディズニーランドの星」になったと思っています。

あなたのおかげです。本当にありがとうございました。



…手紙を読んだキャストは、その場で泣き崩れたそうです。

もちろん、その男の子が亡くなった悲しみもあったと思いますが、

「あの時に精一杯のことをしておいて、本当に良かった」

という安堵の涙だったと思うんです。



2013年10月1日火曜日

『未送信のメール』



私が彼と最初に出会ったのは会社の懇談会でした。


ふとしたことから一緒に遊ぶようになり、付き合いはじめました。




私はもともと打たれ弱い性格だったので、彼にグチってしまうことが 多かったのです。


でも、彼はそんな私に嫌な顔一つせずに、優しい言葉をかけてくれたり、励ましてくれていました。




彼はグチ一つこぼさず、明るい人だったので、


「悩みがないなんていいねー。」


なんて言ってしまったりすることもありました。





彼との別れは突然訪れました。彼が交通事故で亡くなったのです。


彼のお葬式に行っても、まったく実感が湧きませんでした。




お葬式の後、彼の両親から彼の携帯を渡されました。


携帯をいじっていると、送信されていない私宛のメールが たくさんあるのに気付きました。




そのメールには仕事のグチや悩みごとなどがたくさん書いてありました。



その瞬間、私は彼の辛さに気付かなかった自分のくやしさや、無神経な言葉を言った自分への後悔、常に私を気遣っていてくれた彼への感謝で涙が止まりませんでした。



あの日からもう1年以上になりますが、その携帯は大切にとってあります。



『約束のホームラン』



これはアメリカのある田舎町に住む野球好きの少年と、メジャー屈指のスラッガーのお話です。

主人公の野球好きの少年は、小さな頃に事故で視力を失いました。

少年が10歳になった時、少年の両親は主治医から衝撃の事実を伝えられます。



「彼の目の見えなくなった理由は、事故で彼の脳が大きなダメージを負ったからです。彼の脳は今でも少しずつ失われています。このままではやがて、彼は命を落としてしまうでしょう」

「脳の手術を行うしかありません。運が良ければ、目もまた見えるようになるでしょう。ただ、大きな手術になるので当然大きなリスクも伴います」

両親は悩んだ末に手術を行うことを決意し、そのことを息子にも伝えますが、頭の中の手術ということで彼はなかなか「うん」と言うことができません。



少年は大の野球好きで、メジャーリーグでも5本の指に入るあるスラッガーと彼のチームの大ファンでした。



そこで両親は、そのメジャーリーガーが直接息子に会って説得をしてくれれば、手術を決断してくれるのではないかと考え、いろいろなルートでそのメジャーリーガーとコンタクトを取ろうと駆け回りました。

しかし世の中、そんなに甘くはありません。
いつまでたってもそのメジャーリーガーと少年の面会はかなわず、月日だけがどんどんと過ぎていきました。

そんな折、1本の電話が鳴りました。
電話の相手は、何とそのメジャーリーガーだったのです。



噂を聞いた彼のマネージャーが、盲目の少年の事をメジャーリーガーに話してくれたのです。
こうしてついに、少年とメジャーリーガーの面会が実現しました。



「君自身のためにも、君のことを心配してくれる両親のためにも、手術を受けてくれないか?」

「でも頭の中の手術だっていうし…正直怖いんだ」

「でも…」

「でも?」

「僕のためにホームランを打ってくれるなら…」

「何だって?」



「次の試合、あなたが僕のためにホームランを打ってくれるなら、手術を受ける。手術を受ける勇気が沸いてくると思うんだ」



少年の申し出にメジャーリーガーは一瞬戸惑いました。
もしもホームランを打てなかったら、少年は手術を受けてくれないかもしれません。
そうなれば、最悪の事態も想定されます。しかし。



「ああ!次の試合、君のためにホームランを打つよ。だから君も、僕がホームランを打ったら手術を受けるんだ」と、反射的に答えてしまいました。



この話はチームの広報担当者がマスコミにリークしていたために、すぐに全米のメディアに取り上げられることになりました。

テレビや新聞は、かつてベーブ・ルースが行った「予告ホームラン」になぞらえ、この話を大々的に報じました。



翌日の新聞には
「予告ホームラン、盲目の少年と約束」
という大きな見出しが載りました。



メジャーリーガーは後悔していました。
もし自分がホームランを打てなければ、少年は手術を受けてくれないかもしれません。
そうなれば、彼の命は危険にさらされます。

しかし、自分にできることはとにかくベストを尽くすことしかないと考え、当日の試合を迎えました。

当日の試合はメディアによる報道もあり、大変な注目の中で行われることになりました。
少年もラジオの実況中継が始まるのを待ちわびていました。





午後6時30分、試合が始まりました。



相手チームのエースは連戦連勝、その勢いのままに初回から真っ向勝負を挑んできました。
予告ホームランのことは知っていましたが、手を抜くことはプロとして失格だし、スラッガーである彼にも失礼だと考えていたのです。

7回終了時点で彼の成績は3打数1安打1三振。
ホームランはまだありません。

そして迎えた9回裏の最終打席。
2アウト2、3塁、1対3、2点差で負けている場面でした。



ここでホームランを打てば逆転サヨナラ、彼のチームの勝利です。
次のバッターは絶不調だったので、ここは彼を一塁に歩かせてもいい場面でした。

しかし、相手チームのエースはマウンドでストレートの握りを彼に見せました。
予告ホームランに対し、予告ストレート、この相手エースの予告投球に、スタジアムは騒然となりました。

相手エースとスラッガーの勝負は2-3のフルカウントまでもつれました。
相手エースは、最後の一球もストレートを予告しました。



最後にエースが投げた渾身のストレートを、彼はフルスイングしました。



「お願い打って!!」球場にいた人たちも、テレビで見ていた人たちも、ラジオで聞いていた少年も、皆が天に祈りました。



!!!






しかしボールはキャッチャーミットの中。
試合終了です。

その時でした。
実況をしていたラジオのアナウンサーが叫びました。




「やりました!打ちました!!大きな打球がスタジアムを超えて場外へ、月に届くかのような大きな大きなホームランです!!」




スタジアムの観客も拍手をして、2人の勝負を讃えました。観客は彼の名前を連呼し「ナイスホームラン!」と口々に叫び、いつのまにか球場全体が同じ言葉でつながっていました。

アナウンサーは少年の名前を呼んで言いました。
「聞こえるかい、すごい声援だろう? 彼は見事に君との約束を果たしたんだ!」

「今度は君自身が手術でホームランを打つんだよ。そして手術を成功させて、いつの日か君の目でホームランを見にスタジアムに来るんだ」と締めくくりました。



明くる日の新聞にこんな言葉がありました。
" 昨日の試合、彼の成績は4打数1安打2三振。ただそのうちの1三振は、見事なホームランだった"

誰もが目撃したのです。
心でしか見えないホームランを。
ラジオのアナウンサーはそのホームランを見事に実況したのです。

1年後、球場にはかつて盲目だった少年の姿がありました。
少年の瞳には、スラッガーの放つ豪快なホームランの軌跡がはっきりと映っていました。
幻のホームランは、時を超えて本物のホームランになったのです。


2013年9月30日月曜日

『通知表』



私が小学校五年生の担任になったとき、クラスの生徒の中に勉強ができなくて、服装もだらしない不潔な生徒がいたんです。

その生徒の通知表にはいつも悪いことを記入していました。

あるとき、この生徒が一年生だった頃の記録を見る機会があったんです。



そこには

「あかるくて、友達好き、人にも親切。勉強もよくできる」

あきらかに間違っていると思った私は、気になって二年生以降の記録も調べてみたんです。



二年生の記録には、

「母親が病気になったために世話をしなければならず、ときどき遅刻する」

三年生の記録には、

「母親が死亡、毎日悲しんでいる」

四年生の記録には、

「父親が悲しみのあまり、アルコール依存症になってしまった。暴力をふるわれているかもしれないので注意が必要」


………私は反省しました。今まで悪いことばかり書いてごめんねと。

そして急にこの生徒を愛おしく感じました。

悩みながら一生懸命に生きている姿が浮かびました。



なにかできないかと思った私はある日の放課後、この生徒に

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、一緒に勉強しない?」

すると男の子は初めて笑顔を見せました。


それから毎日男の子は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けました。

男の子は自信を持ち始めていました。





そしてクリスマスの午後の日の事です。

男の子が小さな包みを私の胸に押付けてきました。

後で開けてみると、香水の瓶でした。



きっと亡くなったお母さんが使っていた物にちがいない。

私はその一滴をつけ、夕暮れに男の子の家を訪れました。

男の子は、雑然とした部屋で独り本を読んでいました。



男の子は、気がつくと飛んできて、私の胸に顔を埋めて叫んびました。

「ああ、お母さんの匂い!今日はなんて素敵なクリスマスなんだ。」




六年生になって男の子は私のクラスではなくなったんですが、卒業式の時に

「先生はぼくのお母さんのような人です。ありがとうございました」

と書かれたカードをくれ、卒業した後も、数年ごとに手紙をくれるんです。



「先生のおかげで大学の医学部に受かって、奨学金をもらって勉強しています」

「医者になれたので、患者さんの悲しみを癒せるようにがんばります」



そして、先日私のもとに届いた手紙は結婚式の招待状でした。

そこにはこう書き添えられていました。



「母の席に座ってください」



『人生を楽しく生きるってこういう事なんだ』



今日、近所の交差点で車に乗って信号待ちをしていると、前方の右折車線でジリジリ前進している車がいた。

明らかに信号が青になった瞬間に曲がっちまおう、っていうのが見え見え。

この道路は主要幹線(って言っても所詮田舎のだが)で交通量も多い。
確かにこのチャンスを逃したら、右折信号が出るまでの数分は足止めを食らうだろう。



俺は
「ほんの数分も待てねーのかよ。やらせっかよ、このDQNが」
と毒づきながら、信号が変わる瞬間を待っていた。

当然譲る気は無い。昼飯前の空腹感と暑さが俺を少々苛立たせていた。




すると、いきなり、俺の左の車線の車から中年の男性が降りてきた。
自分の車を放っておいて。その車には誰も乗っていない。
もうすぐ信号が変わる大通りで信じられない出来事。

そのおっさんは、俺の車の前に背を向けて立ち、『止まっとけ』のサインを出しつつ、右折しようとした車に『早く行け』と手を振った。

右折車が結構なスピードで右折していく。
しかし、俺の目にははっきりと見えた。



苦しそうな顔の女性が。
助手席の窓にまで達した大きな腹。
明らかに妊婦。

俺は、咄嗟に助手席の窓を全開にし、小走りで車に戻ろうとしていたおっさんに叫んだ。

「ありがとう! 全然気づかなかったよ!」



おっさんは、ちょっとびっくりしたような顔をすると、
「仕事が交通整理なんでな!」
と、笑いながら言い返してきた。

その顔の誇らしげなこと。とても眩しく見えた。



後続車の猛クラクションの中、俺たちは慌てて発進した。

ハザードを2回焚く。
多分、隣の車も。



結果的に俺は何も出来なかった訳だが、あそこで「ありがとう」と言えた自分に感謝したい。
素直な感謝の気持ちをそのまま言葉にする。

自分が本当に思っていることを口にして言うだけなのに、それが恥ずかしくて出来なかった、愚かな俺。

いままで、本当に言いたいことも言えず、へらへら生きてきただけの自分を後悔する毎日だったから。



『人生を楽しく生きるってこういう事なんだ』



それがちゃんと出来ることを教えてくれたおっさん、本当にありがとう。
そして、あのときの妊婦さんが、元気な子供を生んでくれることを、心からお祈りします


『お兄ちゃん帰ってきて』



私には、兄がいました。

3つ年上の兄は、妹想いの優しい兄でした。

ドラクエ3を兄と一緒にやってました。(見てました。)

勇者が兄で、僧侶が私。遊び人はペットの猫の名前にしました。

バランスの悪い3人パーティ。兄はとっても強かった。

苦労しながらコツコツすすめた、ドラクエ3。おもしろかった。

たしか、砂漠でピラミッドがあった場所だったと思います。

とても、強かったので、大苦戦してました。



ある日、兄が友人と野球にいくときに、私にいいました。

「レベ上げだけやってていいよ。でも先には進めるなよ。」

私は、いっつもみてるだけで、よくわからなかったけど、

なんだか、とてもうれしかったのを覚えてます。

そして、その言葉が、兄の最後の言葉になりました。





葬式の日、父は、兄の大事にしてたものを棺おけにいれようとしたのを覚えてます。

お気に入りの服。グローブ。セイントクロス。そして、ドラクエ3。

でも、私は、ドラクエ3をいれないでって、もらいました。

だって、兄から、レベ上げを頼まれてたから。



私は、くる日もくる日も時間を見つけては、砂漠でレベ上げをしてました。

ドラクエ3の中には、兄が生きてたからです。

そして、なんとなく、強くなったら、ひょっこり兄が戻ってくると思ってたかもしれません。

兄は、とっても強くなりました。とっても強い魔法で、全部倒してしまうのです。



それから、しばらくして、ドラクエ3の冒険の書が消えてしまいました。

その時、初めて私は、泣きました。 ずっとずっと、母の近くで泣きました。



お兄ちゃんが死んじゃった



やっと、実感できました。

今では、前へ進むきっかけをくれた、冒険の書が消えたことを、感謝しています


『娘』



今日も仕事で疲れきって遅くなって家に帰ってきた。

すると、彼の5歳になる娘がドアのところで待っていたのである。

彼は驚いて言った。



父「まだ起きていたのか。もう遅いから早く寝なさい」

娘「パパ。寝る前に聞きたいことがあるんだけど」

父「なんだ?」

娘「パパは1時間にいくらお金をかせぐの?」



父「お前には関係ないことだ」

父親はイライラして言った。

父「なんだって、そんなこと聞くんだ?」

娘「どうしても知りたいだけなの。1時間にいくらなの?」



女の子は嘆願した。

「あまり給料は良くないさ・・・20ドルくらいだな。ただし残業代はタダだ」

「わぁ。」

女の子は言った。

「ねえ。パパ。私に10ドル貸してくれない?」



「なんだって!」

疲れていた父親は激昂した。



「お前が何不自由なく暮らせるためにオレは働いているんだ。それが金が欲しいだなんて。だめだ!早く部屋に行って寝なさい!」

女の子は、黙って自分の部屋に行った。



しばらくして父親は後悔し始めた。少し厳しく叱りすぎたかもしれない…。

たぶん娘はどうしても買わなくちゃならないものがあったのだろう。

それに今まで娘はそんなに何かをねだるってことはしない方だった・・・。





男は娘の部屋に行くとそっとドアを開けた。

「もう寝ちゃったかい?」

彼は小さな声で言った。

「ううん。パパ!」



女の子の声がした。少し泣いているようだ。

「今日は長いこと働いていたし、ちょっとイライラしてたんだ・・・。
 ほら。お前の10ドルだよ」

女の子はベットから起きあがって顔を輝かせた。



「ありがとう。パパ!」

そして、小さな手を枕の下に入れると数枚の硬貨を取り出した。

父親はちょっとびっくりして言った。

「おいおい。もういくらか持ってるじゃないか」

「だって足りなかったんだもん。でももう足りたよ」

女の子は答えた。そして10ドル札と硬貨を父親に差しのべて、




「パパ!私20ドル持ってるの。これでパパの1時間を買えるよね?」



『一粒の豆よ「ありがとう」』



ヒロインは一人のお母さんです。

もう30年近くお目にかかっていませんが、元気でお過ごしになっていると思います。
年齢は私とほぼ同じです。十数年前に九州の某所で偶然ばったりとお会いしたきりです。


「あ、暫くでした。お元気で何よりです。お子さん達は?」
「お陰様で無事に暮らしております」
「もう大きくなられたでしょう」
「先生、大きいどころではございません。長男には孫がおりますし、下の子もまもなく結婚します」

「そうですかァ、月日のたつのは早いものですね。あの頃のお子さんは・・・・・」
「はあ、上が小学校の五年生頃でしたかねえ、下の子が三つ年下でしたから・・・・・」


 その二年前にご主人が自動車事故に遭遇しました。
のちに私は確認のために事故の現場に立ったことがあるのですが、どちらが悪いのかわからない微妙な事故でした。
それにもかかわらず、ご主人は救急車で病院に入りましたが、二時間後に亡くなられ、不幸は追い討ちをかけて、加害者と認定されてしまったのです。相手の方も重傷でした。弁償に当てるために残された家や小さな土地を売り払い、お母さんは二人の幼い子を連れて、知り合いの人の情にすがって、転々と居を移しました。最後にある方のご好意で納屋を提供され、そこに住みました。

中は六畳一間程の広さしかない上に、納屋ですから押入れもありません。電線を引き込んで裸電球をつけました。昼間でも明かりをつけておかないと、室内は真っ暗です。外にあった水道を使わせてもらい、煮炊きは七輪に火を起こしてやりました。


 お母さんは生活を支えるために、朝は五時に起きて朝食の仕度をし、六時には家を出て、近くのビルを一人で各階すべてを掃除する仕事をし、一旦家に戻って食事をすませると、今度は子供達が通う小学校で給食のお手伝いをやり、夜は料亭の板場でお茶碗やお皿を洗うという毎日が、一年中続きました。

ご主人が亡くなられた後の整理もそこに重なって、お母さんの疲労は積み重なっていきました。子供達が二人とも健康で明るい性格であったのがただ一つの救いでしたが、二年もすると、さすがに疲れ果てました。

果たしてこれで生きていけるのかしら、いっそのこと子供と一緒に死んでしまったほうが、子供達のためにも幸せであるかもしれないと思い詰めるようになってきました。


 ある日のこと、いつものように朝早く家を出ようとするときに、お母さんはお兄ちゃんがまだすやすや寝ている枕許に、一通の置き手紙を書きました。

―お兄ちゃん、今夜は豆を煮ておかずにしなさい。七輪に火を起こして、お鍋に豆を浸しておいたからそれをかけて、豆が柔らかくなったら、おしょう油を少し入れなさいー

文字通り薄いせんべい蒲団の中で、体を寄せ合って眠っている二人の子に、もう一度蒲団を寒くないように掛け直すと、まだ暗い中を働きに出ました。




 自殺する人の多くは、瞬時に死を決意するそうですが、その日は普段よりも一層強く子供達と一緒に死んでしまおうとお母さんは意識していたそうです。  どういう風にして手に入れたかは聞いていませんが、お母さんは睡眠薬を多量に買い込んで家に戻りました。

心身共に疲れ切っていて、納屋の戸を、すでに寝ている子供達にがたぴしという音を聞かせないように開けるのさえ容易でありませんでした。


 薄暗い豆電球を一つつけただけで二人は眠っていました。
普段から電気代を節約しなくては駄目よと言ってあるのを、子供達はよく守っていてくれているようでした。

寒いけれども七輪に火を起こす気にもなれず、お母さんは板張りの床の上に敷いたゴザの上に、べったりと座り込んでしまいました。
どうしたらこの子達に睡眠薬を飲ませることが出来るのか、恐ろしい空想が頭の中を駆けめぐりました。


 お母さんはふと気がつきました。
お兄ちゃんの枕許に紙が置いてあり、そこに何か書いてあるようなのでした。
お母さんはその紙を手に取りました。
そこにはこう書かれていたのでした。


―お母さん、おかえりなさい。お母さん、ボクはお母さんの手紙にあった通りに豆をにました。
豆がやわらかくなった時に、おしょうゆを少し入れました。
夕食にそれを出してやったら、お兄ちゃんしょっぱくて食べられないよと言って、弟はごはんに水をかけて、それだけ食べて寝てしまいました。
お母さん、ごめんなさい。でもお母さん、ボクはほんとうに一生けんめい豆をにたのです。
お母さん、あしたの朝でもいいから、僕を早く起こして、もう一度、豆のにかたを教えてください。
お母さん、今夜もつかれているんでしょう。お母さん、ボクたちのためにはたらいてくれているんですね。
お母さん、ありがとう。おやすみなさい。さきにねます・・・――



 読み終わった時、お母さんの目からはとめどなく涙が溢れました。
「お兄ちゃん、ありがとう、ありがとうね。お母さんのことを心配してくれていたのね。ありがとう、ありがとう、お母さんも一生懸命生きて行くわよ」
お母さんはそうつぶやきながら、お兄ちゃんの寝顔に頬ずりをし、弟にもしました。

納屋の隅に落ちていた豆の袋を取上げてみると、煮てない豆が一粒入っていました。
お母さんはそれを指でつまみ出すと、お兄ちゃんが書いた紙に大切に包みました。


 その時からお母さんは紙に包んだ豆を、いつも肌身離さずに持っています。
「もしお兄ちゃんがこの手紙を書いてくれなかったら、私達はお父さんを追って天国へ行っていたことでしょう。いいえ、私だけが地獄へ落とされたと思います。その私を救ってくれたのは、お兄ちゃんの『お母さん、ありがとう』の言葉でした」

「今でも?」と聞きますと、お母さんはハンドバックを開けて、すっとあの一粒の豆が入った小さな紙包みを取り出して見せてくれました。


「お兄ちゃんには話したのですか」
「いいえ、私がほんとうに死ぬ時に、あの子にありがとうを言うために、それまではそっと自分だけのものにしておきたいと思っています。私の人生の最高の宝物です」
いま、日本の広い空の下に、一粒の豆を包んだ紙を大切に身につけているお母さんが、どこかに一人いるのです。私もお母さんの秘密を守って行きます。

私のほうがたぶんお母さんより先にこの世を失礼するはずですので、秘密を守り切れると信じています。


ありがとう物語(鈴木健二著、発行:モラロジー研究所)から・・・



2013年9月28日土曜日

『ありがとう、ありがとう』


 一人のお母さんから、とても大切なことを教えられた経験があります。

 そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、知的障害を起こしてしまいました。
次に生まれた弟が二歳のときです。
ようやく口がきけるようになったその弟がお兄ちゃんに向かって、こう言いました。

 「お兄ちゃんなんてバカじゃないか」

 お母さんは、はっとしました。
それだけは言ってほしくなかった言葉だったからです。
そのとき、お母さんは、いったんは弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。
―――弟にお兄ちゃんをいたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。

 その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。
そして一年たち、二年たち・・・しかし、相変わらず弟は、「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。
お母さんはなんべんも諦めかけ、叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました。
しかし、もう少し、もう少し・・・と、根気よくノートをつけ続けました。

 弟が幼稚園に入った年の七夕の日、偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。
人があまりたくさん来たために興奮したのか、お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。

 みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、そういう子であることを知っていましたから、言い出しかねていました。
そのとき、弟が飛び出してきて、お兄ちゃんに向かって言いました。
「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。ぼく、痛いって言わないよ」
お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。

 その晩、お母さんはノートに書きました。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」
ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。




 人間が本当に感動したときの言葉は、こういうものです。

 やがて弟は小学校に入学しました。
入学式の日、教室で初めて席が決められました。
ところが弟の隣に、小児マヒで左腕が不自由な子が座りました。
お母さんの心は動揺しました。家ではお兄ちゃん、学校ではこの友だちでは、幼い子に精神的負担が大きすぎるのではないかと思ったからです。

 その夜、ご主人と朝まで相談しました。
家を引っ越そうか、弟を転校させようかとまで考えたそうです。
結局、しばらく様子を見てから決めようということになりました。

 学校で最初の体育の様子を見てから決めようということになりました。
学校で最初の体育の時間のことです。受持ちの先生は、手の不自由な子が体操着に着替えるのを放っておきました。
手伝うのは簡単ですが、それより、一人でやらせたほうがその子のためになると考えたからです。

 その子は生まれて初めて、やっと右手だけで体操着に着替えましたが、そのとき、体育の時間はすでに三十分も過ぎていました。
二度目の体育の時間のときも、先生は放っておきました。
すると、この前は三十分もかかったのに、この日はわずかな休み時間のあいだにちゃんと着替えて、校庭にみんなと一緒に並んでいたのです。

 どうしたのかなと思い、次の体育の時間の前、先生は柱の陰からそっと、その子の様子をうかがいました。
すると、どうでしょう。前の時間が終わるや、あの弟が、まず自分の服を大急ぎで着替えてから、手の不自由な隣の席の子の着替えを手伝いはじめたのです。
手が動かない子に体操着の袖を通してやるのは、お母さんでもけっこうむずかしいものです。
それを、小学校に入ったばかりの子が一生懸命手伝ってやって、二人ともちゃんと着替えてから、そろって校庭に駆け出していったのです。

 そのとき、先生は、よほどこの弟をほめてやろうと思いましたが、ほめたら、「先生からほめられたからやるんだ」というようになり、かえって自発性をこわす結果になると考え、心を鬼にして黙っていました。
それからもずっと、手の不自由な子が体育の時間に遅れたことはありませんでした。

 そして、偶然ながら、また七夕の日の出来事です。授業参観をかねた初めての父母会が開かれました。
それより前、先生は子どもたちに、短冊に願いごとを書かせ、教室に持ち込んだ笹に下げさせておきました。
それを、お母さんが集まったところで、先生は一枚一枚、読んでいきました。

 「おもちゃがほしい」、「おこづかいをもっとほしい」、「じてんしゃをかってほしい」・・・。
そんないかにも子どもらしい願いごとが続きます。
それを先生はずっと読んでいくうちに、こんな言葉に出会いました。

 「かみさま、ぼくのとなりの子のうでを、はやくなおしてあげてくださいね」
言うまでもなく、あの弟が書いたものでした。
先生はその一途な願いごとを読むと、もう我慢ができなくなって、体育の時間のことを、お母さんたちに話して聞かせました。

 小児マヒの子のお母さんは、我が子が教室でどんなに不自由しているだろうと思うと気がひけて、教室に入ることもできず、廊下からそっとなかの様子をうかがっていました。
しかし、先生のその話を聞いたとたん、廊下から教室に飛び込んできて、床に座り込み、この弟の首にしがみつき、涙を流し、頬ずりしながら絶叫しました。

 「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・・」

その声がいつまでも学校中に響きました。       


「本当に感動したときの言葉」鈴木 健二 著 講談社文庫より