その頃の私は、非行少年のレッテルを張られていることを名誉とさえ思え、悪友と粗暴な行動の毎日。
高校だけは曲がりなりに卒業し、就職したものの、長続きするわけもなく、その後は3ヶ月おきに職を変え、まさに地に足が付かぬ日々を過ごしていました。
真面目にコツコツ働く一部の大人達が哀れに見え、命令口調で怒鳴りまくる上司に未熟者の私は、「てめぇら、なめんじゃねぇぞ!ばかやろう!」と、愚かさを繰り返し、職を変えていました。
そうした中で、西新宿の小さな喫茶店で働くことになりました。
異常な回転率で目まぐるしく出入りする客。
私より4つ上である細身の森さんは、次から次と襲うオーダーを手際よくこなしていました。
飲食業が初めての私は失敗の連続。
そんな繰り返しが1ヵ月と続き、足手まといの連続。
普通であれば怒鳴り声がとぶか、首になっても文句が言えない状況でした。
そんな不手際を森さんは笑顔で見守ってくれ、そればかりか普通は下の人間がやるべき汚い仕事や、いやな仕事の一切を自分でやる人でした。
客が引いた時などは私を休ませてくれて、皿洗いや片付けをする。
最初はこの店の方針がそうかなと思っていましたが、遅番の仕事ぶりをみて、どうやら自分の思い上がりに気付きました。
森さんは言葉ではなく、自らの行動で私に教えていたのです。
それが自分の中の何かを根本から打ち消す結果をもたらしてくれたのです。
それからというもの私は少しでも周りの人の役に立てるよう努めました。
その日は朝から雨が降りしきり、店は雨宿りがてらの客で蜂の巣をつついたような状況でした。
一人の女性客が
「すいません、トイレ詰まっていて使えないんですけど・・・」
この店のトイレは男女兼用で便器は一つだけ。
それが詰まったとなれば営業中止ともなりうる一大事。
私は急いでできうる手段を用いて回復を試みたが、水は溢れるばかり。
客の苦情が聞こえる中、修理屋を呼ぶ余裕などありません。
そこへ森さんが来て、白いワイシャツを二の腕までまくり上げたかと思うと、汚物が逆流している便器の中に素手を突っ込んだのです。
詰まっていたトイレットペーパーの固まりは見事に取り除かれ、便器の機能は回復しました。
「これじゃあ、いい男台無しだな。でもよかったな」
屈託のない笑顔。
私は唖然としてしばらく声がでず、金槌で頭を殴られたような衝撃が走ったことを覚えています。
いくら急を要するといえ、そこまでできる人はいません。
けちなプライドを持つよりもっと大切なこと、わかっているようで気付かないこと、人生において大事なことを森さんと働いた2年間ですべて教わったような気がします。
そのコミュニケーションはいつも言葉ではありませんでした。
その後、森さんは田舎の事情があって佐賀の方に帰郷することになりました。
「オレ田舎に帰って海苔づくりするよ。有明海だ、九州の方に来る機会があったら連絡してくれ」
森さんが去った後、私も店をやめ他の仕事に就くことになりましたが、それまでのことが、いかに他の方面でも役立った計りしれません。
いつも信頼という二文字が残っていくのがわかりました。
もしかしてあの人は神様だったかもしれないと思うのでした。
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潮文社・『心に残るとっておきの話』第三集より
この5年後、筆者は仕事で長崎に行った機会に、ホーム上で森さんと再開した喜びを記しています。
「これオレが作った海苔だ。東京へ帰ったら食ってくれ、うまいぞ」
“夢をみているようでした。疲れは一気に飛び、同時に何にも替えがたい悦びと涙が込み上げてどうすることもできませんでした。”と結んでいます。
筆者は、すばらしい人に巡り会いました。
しかし、感じるところがなければ、「ただ、いい人だった」で終わってしまいます。
筆者もまた、すばらしい人です。
あなたは汚物の便器の中に手を突っ込めますか?
躊躇(ちゅうちょ)せずに出来ることではありません。
私なら出来そうにありません。
それが出来るから偉いというわけではありません。
こうした人はいざという時に、どんな時にも 真価を発揮するとわかるからすばらしいのです。
いつの時代でも、場所を問わず、砂浜の雲母(きらら)のように、キラリと光る人がいますね。
こうした人間になりたいと願っているのですが・・。道遠し、です。
この話は、上に立つ者にとって、いい教訓を与えてくれています。
人を動かすのは言葉ではなく、手本をしめすこと、信頼されることなのだと教えてくれています。
怒鳴っているばかりの上司ではたまりません。
旧帝国海軍・連合艦隊長官の山本五十六の語録の中に、「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」とある。
厳しい訓練で鍛え、優秀な人材が沢山いたであろう旧海軍の長の言葉である。
思うように動かないからと叱りつける指導では駄目ですね。
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