2016年1月3日日曜日

写真のおじちゃん



僕の母には、弟が居たそうです。
母の実家に行くと、仏壇に飾られた写真の中に、一枚だけまだ幼い少年の写真があるのですが、それが母の弟だと知ったのは、僕が随分大きくなってからのことでした。
生きていれば僕の叔父にあたるその人を、僕は「写真のおじちゃん」と教わってきました。


写真のおじちゃんがどうして「写真のおじちゃん」になってしまったのか。
つまり、どうして若くして命を落としてしまったのかを詳しく聞くことが出来たのは、実は今から数年前のことでした。
母方の祖母が体調を崩して入院してしまったときに、ふと母からこんな話を聞いたのです。

「ばぁちゃんは、息子が亡くなった時に着ていた服を、今も大事にしまってある。自分が死んだときには、それも一緒に燃やして欲しいとずっと言ってきたんだよ。」と。
そのときです。
当時何があったのかを初めて聞くことになったのでした。


その頃、母と弟はちょうど夏休みを迎えていました。
地区の皆で海に海水浴へでかけたのだそうです。
祖母は一人家で留守番をしていました。

子供たちにとって、海は夏休みの醍醐味でしょう。
みんなが思いっきりその日一日楽しみました。
青い海はどこまでも広く、遠くには船が小さく浮かんでいます。
そんな情景が、聞いている僕の頭にも鮮やかに浮かんできました。
賑やかな子供たちの声まで聞こえて来るようです。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰る時が近付いてきました。
母は、近くで泳いでいたはずの弟の姿が見えないことに気が付きました。

引率役の父兄たち、そして海の家の人たちも皆総動員で弟を探したそうです。

そして、立ち入ってはいけない遊泳禁止の岩場の底で息絶えている弟の姿を見つけたのだそうです。

母は、自分の弟の遺体が海から引き上げられる様子を見たのです。

祖母は、元気に朝出かけていったはずの息子を、遺体とういう形で迎えることになったのです。

その時の様子は、とてもじゃありませんが聞けませんでした。
そんなことは、聞かなくとも分かります。

ふくよかでいつも威勢がよく、笑い声が大きい祖母。
その祖母が受けた衝撃、そして母が背負った悲しみ。
祖父の怒りや喪失感。

それを言葉に表すことはとても出来ません。



夏がすぎて秋が来た時、農家だった祖父は稲刈りのために田んぼへ向かいました。
そこに、一列だけ不恰好に並んだ稲の列を見ました。
それは、息子が植えた稲たちでした。

それを見たとき、祖父はその場で泣き崩れたそうです。

春に生きていた子が秋には居ない。

その事実に、きっと祖父はずっと耐えてきたのでしょう。

一家の大黒柱として、家族を支える立場として、息子を失った悲しみを心の奥に隠して我慢してきたはずなのです。

しかし、息子が生きてきた軌跡を思いがけないところに見てしまったその時の祖父が、涙をこらえることが出来なかったということ。

それが、僕の胸にも痛いほどに刺さりました。

そんな祖父は、僕が生まれてすぐに癌でこの世を去りました。
ですから、僕には祖父と叔父の記憶と言うものがないのです。

家族の中で頼るべき存在、愛すべき存在を早いうちに二人も亡くした祖母。
今の明るく強い祖母がどう乗り越えてきたのか。

それを聞くことは、なぜだかいけないことのような気がして今でも聞くことが出来ません。

気が強い祖母のことが、小さいときはすごく苦手でした。
きちんとしなければ怒られる、そんな気持ちでいつもピリピリしていたものです。

一度は、あまりにも祖母の家に居るのが嫌で、具合がわるくなってしまったことさえありました。

ですが、そんな祖母も年々小さくなり、いつの間にか僕のほうが口でも負けないようになってしましました。
そのため、祖母が入院したときはまさかこのまま…。

という気持ちが胸をよぎりましたし、そんな時に聞いた母の弟の事実は僕をなんとも言えない気持ちにさせたのでした。


海で亡くなった息子が、きっと最期に迎えに来てくれる。
その時にまた再会できることを楽しみにしている祖母。

けれども、僕はまだ祖母に、息子のところに行ってほしくはありませんでした。
祖母と、亡くなった叔父には申し訳ないけれど、まだ再会するのは早すぎる、と、ずっと祈っていました。

なんとか峠を越した祖母。
しばらく入院した後、無事に家に戻ってくることができました。

僕は仏壇に座り、亡くなった叔父と祖父にお礼を言いました。
そして、母にそっくりの顔で笑う「写真のおじちゃん」にお願いしました。

「まだまだ寂しいかもしれないけれど、お母さんを迎えに来ないでね。」と。
なんとなく、「写真のおじちゃん」が、「仕方ないなぁ。」と笑ったような気がしました。


必ずくるであろう最期の瞬間。

祖母がその時を迎えるとき、きっと「写真のおじちゃん」があの頃のままの姿で笑いながら迎えにくることでしょう。
死ぬことが怖くない、あの子に会えるんだからむしろ楽しみだ、と笑う祖母。

でも、出来ることなら、その祖母の笑顔をあともう少このまま見ていたいと願うのでした。


祖父のおにぎり




私の両親は共働きで、父親は会社の重役と言うこともあり、小さい頃から単身赴任や出張で忙しく飛び回っていました。
母親は製造関係の会社に長く勤めており、そこでのリーダーを任されるなどで残業も多く、そんな両親に代わって私の面倒を見てくれたのが祖父母でした。


私には弟が一人おり、家に帰ると決まって祖父がおやつ代わりに作ってくれる大きな大きな「おにぎり」を一緒に食べるのが楽しみのひとつでした。
祖父が作るおにぎりには具は入っておらず、シンプルにごま塩をまぶして海苔で巻いた素朴なものでしたが、そのおにぎりがとても美味しいのです。

母が作るおにぎりとはまた違い、なぜ祖父の作るおにぎりはこんなにおいしいんだろう?と、いつも不思議に思っていました。

ある時など、母が作ったおにぎりをひとくち食べて、「ばぁちゃんのおにぎりの方がおいしい」と言ってしまい、母を激怒させてしまったこともありました。
子供の素直さというものは、時に残酷なものなのだということが、今になって身に染みて分かるような気がします。


私たちが家に帰ると、いつも祖父は畑で野菜を育てるのに精を出していました。
夏は一緒にトマトに水をやり、とうもろこしを採って茹でたてをガブリ。

外で食べる夏野菜の美味しいこと美味しいこと。
縁側で弟と二人並んで野菜を食べている姿を、微笑みながら見ている祖父のあの陽だまりのような笑顔は、当時の私たちをどれだけ安心させてくれたことでしょう。
忙しい両親に代わり、私たちを育ててくれた祖父母でした。


幼馴染が遊びに来ると、決まって祖父のおにぎりを食べたがりました。
祖父のおにぎりの美味しさは折り紙つきでしたので、私の自慢でもありました。


しかし、私にもいわゆる「思春期」という時期がやってきて、だんだん祖父の優しさが疎ましさに変わっていってしまったのです。
なんにでも口をだしてくるところ、部屋にノックをしないではいってくるところ、曲がった腰…。

とにかく、些細なことが目に付くようになりました。
中でも私が一番嫌がったのが、例の「おにぎり」でした。

年齢的にダイエットという言葉にも敏感になり、また、交友関係が広がったことで他の家で出てくるお菓子の美味しさに気が付いてしまったのです。


ある日、知人が家に遊びに来た時のことです。
当然ながら、祖父はおにぎりを私たちに作って持ってきてくれたのですが、それがとても恥ずかしく思えてしまった私。
「そんなものいらない!!恥ずかしいからばぁちゃんは来ないで!!」と、部屋から強引に押し出してしまったのです。

あとから「なんてひどいことを言ってしまったのだろう」と後悔しましたが、どうしても謝ることが出来ません。
その時の祖父の顔が、なんども頭に浮かんできました。

祖父がその時作ってくれたおにぎりは、弟が何も知らずに喜んで食べたということが唯一の救いのように思えました。


それからというもの、祖父はおにぎりを作らなくなってしまいました。
変わりにわざわざスーパーまで行って、色々なお菓子を買ってきては黙って部屋の机の上に置いていってくれるようになったのです。
私はますます謝るきっかけをなくしてしまい、そのまま時は流れていきました。


そんなある日、祖父が脳梗塞で倒れてしまったのです。
幸い、命は助かったのですが、右半身に後遺症が残ってしまいました。
リハビリのおかげでどうにか杖を使って歩けるまで回復したのですが、右手はうまく使えないようになってしまった祖父。
すっかり元気をなくしてしまい、それまで頑張っていた畑仕事も花植えも、一切やらなくなってしまいました。

時々寂しそうに畑を眺め、畑は主に祖父が管理することになりました。


私は、どうにかしてまた以前のように朗らかな祖父に戻って欲しいと願いました。
どうしたら祖父のやる気を再び引き出すことが出来るのか、自分なりに考えました。
そして、ある時、思い切って祖父にこう言ったのです。
「また、ばぁちゃんのおにぎりが食べたい」と。

すると、その日から少しずつではありますが、祖父がまた台所に立つ姿を見るようになったのです。
もちろん、隣には母の姿もあります。

祖父の病気がきっかけでパートになった母は、毎日早く帰宅しては祖父と一緒に台所に立っていました。
そしてとうとう、また祖父のおにぎりを口にすることが出来る日がやってきたのです。


そのおにぎりは、いびつで、以前のようにしっかりとは握られていないようでした。

動く左手でご飯を丸めるように掴み、その手の中で少しずつ形を丸く形成していったのだと、隣で見守っていた母が教えてくれました。

味付けは同じくシンプルなごま塩です。
懐かしいそのおにぎりをひとくち食べたとき、今までの祖父とのたくさんの思い出が一気に蘇ってくるような想いがしました。
涙ぐみながら、「じぃちゃんのおにぎりは、やっぱりおいしいなぁ」と、ようやく口に出して言うことができた私。

祖父は、また優しそうにニコリと笑ってくれました。



娘のお弁当



誰にでも好き・嫌い、得意・不得意があると思います。
私は料理の才能がまるでないようで、はっきり言ってしまえば苦手と言うよりも「嫌い」と言っても良いのではないでしょうか。
掃除、洗濯もあまり好きではありませんし、「家事全般」において不得意だと言えるでしょう。

それでも結婚してなんとかそれなりに出来るようにはなりました。
やはり女に生まれたからには主人の健康はきちんと守ってあげたいものですし、まさか主人に家事も仕事も押し付けるというのでは立場がありません。
自分なりに出来る料理を色々工夫してやれるように苦心してきたつもりです。


そして月日は流れ、私にもかわいい女の子が生まれました。
初めての妊娠と出産を経験して生まれたその子は目に入れても痛くないくらいかわいい存在で、家族三人で慎ましくも幸せに日々を送っていました。


娘もすくすくと成長し、幼稚園では仲の良いお友達や優しい先生に囲まれて毎日楽しく過ごしていました。
そんなある日、娘が珍しく暗い顔つきで帰ってきたのです。
何があったのか聞いても答えてくれず、それでも夕方になる頃にはすっかりいつもの娘に戻っていたのであまり気にもとめませんでした。

しかし、それからも忘れた頃にまた暗い顔で帰ってくるようになったのです。
例のごとく聞いても答えてくれず、時間が経つと普通にテレビを見て笑っている娘。
それでも何度かそんなことがあったので、私も心配になってきました。
そこで、幼稚園の連絡ノートで担任の先生に「娘に最近変わった様子はなかったか」聞いてみることにしたのです。


翌日、普段と変わらない様子で幼稚園から帰ってきた娘。
気にしすぎだったかな…?と思いながら連絡ノートを見てみました。
昨日は月に一度のお弁当の日だったのですが、娘は自分のお弁当を隠すようにして食べていたようだったと書かれてありました。


それを見てハッとしました。
娘が暗い顔つきで帰ってきていたのは、そういえばいつもお弁当の日だったのです。
きっとお弁当に何か理由があるのだということに気が付いた私は娘にそれとなく聞いてみることにしました。


娘は始め、何も答えようとはしませんでした。
「なんでもない」の一点張り。
それでもゆっくり話して聞かせてくれた答えはこうでした。

周りのお友達のお弁当はみんなカラフルで色々なキャラクターになっていたりして、見ているだけで楽しそうなお弁当なのに、自分のお弁当はまるで「お父さんのお弁当」みたいで恥ずかしいのだと。
だけど、それを私に言ったら私が傷ついてしまうだろうと思い、じっと我慢していたようなのです。
お友達がお弁当を見せ合ったり交換しあったりしているのが羨ましいけれど、そんなことを言ったらわがままだろうと感じていたと娘。

口に出して言ってしまったことで娘は自分を責めたのでしょう。
大粒の涙をぽろぽろこぼしながら「お母さんごめんなさい」と謝ってきました。





そんな思いをさせてしまっていたことに、私も心から娘に悪い事をしたと思いました。
そして、その日から私の「お弁当の練習」が始まったのです。

本屋さんから「かわいいキャラ弁」の本を数冊購入、また、ネットでも色々研究しながら毎日お弁当の中身を練習しました。

卵焼きは切り方次第でハートや星に出来ます。
野菜もただ茹でただけ、炒めただけではなく、海苔で飾り付けしたりチーズを貼り付けたりすることで動物やキャラクターに変身です。

どれも細かい作業が多く、お弁当作りと言うよりは工作のようなものだと感じました。
それでも娘がもう幼稚園のお弁当の日に肩身の狭い思いをすることがないようにと毎日練習を続けました。

そしてまた、お弁当の日がやってきました。
前日遅くまでかかって下ごしらえをし、朝早くから調理したお弁当。

今まで練習を繰り返してみましたが、やはり自分のセンスのなさと言うものは完全に払拭することはできませんでした。

それでも、目に鮮やかなお弁当に仕上げることができました。
それを持たせて娘を幼稚園に送りだしたのです。

これで今日は少しでも楽しいお弁当の時間が過ごせるようにと祈りながら。

そして、夕方。

幼稚園から帰ってきた娘は、なんだか照れくさそうな顔をしながら、それでも笑顔で帰宅しました。
私のところへ駆け寄り、かばんから誇らしそうに空になったお弁当箱を出してくれた娘。

今日のお弁当はどうだった?と聞いてみると、今までで一番楽しいお弁当の時間だった、と、満面の笑顔で答えてくれたのです。


それからは娘の「お弁当リクエスト」が聞かれるようになり、なんだか辛口の評価までつけてくれるようになりました。
考えてみると、娘の為にお弁当を作ってあげられる期間と言うものは、思っている以上に短いのかも知れません。

それまでの時間、下手な料理でも愛情込めて一生懸命に作ってあげたいな、と思っています。
なんとなく、すこしずつお料理が好きになってきたかな…?そんな風にも思えるのでした。



2013年11月27日水曜日

『卒業文集最後の二行』



傲岸で不遜きわまりない性格の私は「たまには反省しても、決して後悔はすべきではない」と自分に言い聞かせて、それを生活信条としている。

だが、こんな私でもこの場を借りて懺悔したい、いや、せずにはいられない出来事がある。

深い後悔、取り返しのつかない心の傷だ。



時は、青森県五所川原市の小学校時代にさかのぼる。

同級生にT子さんという女の子がいた。

彼女は早くしてお母さんを亡くし、二人の弟さんの面倒もみなければならなかった。



お父さんは魚の行商である。

仕事があまり芳しくないようで、経済的にも恵まれず、その頃の時代にしても彼女の服装はみすぼらしいというより、正直言って汚かった。

今にして思えば、母親がわり妻がわりという生活環境から、自分の身の回りをかまっているどころではなかったのだろう。



生意気で口の悪い私は、先頭になって彼女をけなした。

そのT子さんが、6年生のとき私の隣になった。



「きたねえから、もっと離れろ」

「シラミを移すなよ」(当時でもシラミはいなかった)

この私の言葉にまわりの悪童達は、さらにはやしたてた。



「魚の生ぐさい臭いがしてくるから、T子に寄るな」

「T子、同じ服を何週間着てるんだバ」

「毎日風呂さ入って頭洗って、シラミさ取って来い」



こうした嫌がらせ、いじめに彼女は涙を見せずに歯をくいしばって、じっと耐えていた。

泣いたりするともっといじめられると思ったのであろう。

担任に告げ口もしなかった。



我々はそれを知って、さらに輪をかけて口汚くののしり続けた。

そんなある日、クラスで漢字の小テストが行われた。

どうしても書けない漢字が、私に二個あった。



私はT子さんの答案用紙を覗き、カンニングした。

後日、答案返却があり、その際に先生が私を誉めてくれた。

「イチノヘ、よく頑張ったな。満点はお前ひとりだけだぞ」



私は後ろめたさを少し感じたが満足だった。

その後、愕然となった。T子さんは1個だけの間違いで98点なのだ。

私がカンニングをしなければ、彼女が最高得点者となる。





「さすがイチノヘさんね。おめでとう」

「ハハ、問題がやさしかったからな」

まったく愚かで、鼻持ちならない私、実に情けない。



30年を経た今でも慙愧(ざんき)に耐えない。

さらに、彼女にひどい追い打ちが待っていた。

授業の後、悪童どもが



「イチノヘの答えを見て書いたんだろう」

「お前が98点も取れるわけがねえよ」

「カンニングしてまで、いい点を取りたかったのか」



私も連中の尻馬に乗る発言をしてしまった。

「やっぱり、おめえは私の答えを見たんだろう。見だに決まってる。ずるいと思わねえか」

「私はイチノヘさんの答えを見でいません。着てるものは汚えかもしれないが、心は汚ぐねえ」



「どこまでワをいじめれば、気がすむの!」

とその場から泣きながら外へ飛び出して行った。

悪童どもは彼女の初めての涙に言葉を失った。



「卒業文集」のT子さんの作文の最後の二行である。

『・・・私の今一番欲しいのは母ではなく、本当のお友達です。そしてきれいなお洋服です』



現在、私は圧倒的に女子の多い大学で教壇に立っているが、機会あるごとに後悔と反省の気持ちから、この小学校時代の「悪事」を語って聞かせることにしている。

反面教師といわれようとも、せめてもの罪ほろぼしとして。

ただ語るたびに困ることがある。



喋っている私が学生の前で、つい涙を見せてしまうことと、聞いている学生も泣き出してしまうことである。

あの「卒業文集」の最後の二行は、大きな衝撃だった。

大いなる悔いを与えてくれた。あの二行を読まなかったなら、現在の私はどうなっていたであろう。

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新潮社 心に残るとっておきの話〈第2集〉 より




原文の文量は上記の2倍はあるのですが、長くなるので中略してあります。

現在は、学校における「いじめ」が大きく社会問題となっている。



担任を信頼していないことや「告げ口」したことによる反動を恐れるために、子供の世界のいじめは把握しにくい。

抵抗、反抗しない弱者に対して、いじめは益々エスカレートしていく。

学校の道徳授業に対して、「価値観の押し付けだ」という、伝統的な批判がある。



単に『いじめはダメですよ』と教師が言いたいことをストレートに言うだけでは、生徒の心に伝わらない。

そのことが伝わる資料を探して、生徒自身が問いを重ねることで気付かせる。

その方が生徒はよく考える。



そうしたことからその資料になったのが、ここに掲げた『卒業文集最後の二行』である。

複数の道徳副読本に採用されているという。



『妹への手紙』



静(しい)ちゃんへ

おわかれの時がきました。

兄ちゃんはいよいよ出げきします。

この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。



思いがけないお父さん、お母さんの死で、幼ない静ちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちゃんのかたみとして静ちゃんの名であづけていたゆうびん通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上るときにつかって下さい。

時計と軍刀も送ります。これも木下のおじさんにたのんで、売ってお金にかえなさい。


兄ちゃんのかたみなどより、これからの静ちゃんの人生のほうが大事なのです。

もうプロペラがまわっています。さあ、出げきです。ではお兄ちゃんは征きます。

泣くなよ静ちゃん。がんばれ!



兄ちゃんより

「大野沢威徳からの手紙」(万世基地から)
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大石静恵ちゃん、とつぜん、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思います。

わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。

伍長どのは今日、みごとに出げきされました。



そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちゃんのつくったにんぎょうを、大へん大事にしておられました。

伍長どのは、突入する時に、にんぎょうがこわがると可哀そうと言って、おんぶでもするように背中につっておられました。





飛行機にのるため走って行かれる時など、そのにんぎょうがゆらゆらとすがりつくようにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちゃんといっしよに居るつもりだったのでしょう。

同行二人・・・・仏さまのことばで、そう言います。



苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽっちではない。

いつも仏さまがそばにいてはげましてくださる。

伍長どのの仏さまは、きっと静恵ちゃんだったのでしょう。



けれど、今日からは伍長どのが静恵ちゃんの”仏さま”になつて、いつも見ていてくださることゝ思います。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。

静恵ちゃんも、りっぱな兄さんに負けないよう、元気を出してべんきょうしてください。



さようなら
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旧かな使いは読み辛いので直しました。

彼らの胸の内を思うと何とも切ないものがあります。

私自身、涙を誘う遺書の類は出来ることなら接したくはないな、と思うのですが、もう一人の私は、一人でも多くの若い人にこういった遺書を読んでもらいたいのです。



戦争のことなど歴史の授業でほんの少し触れるだけで、若い人の中には、かつて日本がアメリカと戦争したことすら知らない輩もいると聞きます。

年表だけで戦争を知るのではなく、戦争に涙してもらいたいのです。

当時の若者の運命、生命を翻弄した戦争の非情さ、残酷さを知っていてもらいたい。



またそれを語り継いでもらいたいと願うものです。

それが彼らの生きた証になるのですから。



『私を変えた人』



その頃の私は、非行少年のレッテルを張られていることを名誉とさえ思え、悪友と粗暴な行動の毎日。

高校だけは曲がりなりに卒業し、就職したものの、長続きするわけもなく、その後は3ヶ月おきに職を変え、まさに地に足が付かぬ日々を過ごしていました。

真面目にコツコツ働く一部の大人達が哀れに見え、命令口調で怒鳴りまくる上司に未熟者の私は、「てめぇら、なめんじゃねぇぞ!ばかやろう!」と、愚かさを繰り返し、職を変えていました。



そうした中で、西新宿の小さな喫茶店で働くことになりました。

異常な回転率で目まぐるしく出入りする客。

私より4つ上である細身の森さんは、次から次と襲うオーダーを手際よくこなしていました。



飲食業が初めての私は失敗の連続。

そんな繰り返しが1ヵ月と続き、足手まといの連続。

普通であれば怒鳴り声がとぶか、首になっても文句が言えない状況でした。



そんな不手際を森さんは笑顔で見守ってくれ、そればかりか普通は下の人間がやるべき汚い仕事や、いやな仕事の一切を自分でやる人でした。

客が引いた時などは私を休ませてくれて、皿洗いや片付けをする。

最初はこの店の方針がそうかなと思っていましたが、遅番の仕事ぶりをみて、どうやら自分の思い上がりに気付きました。



森さんは言葉ではなく、自らの行動で私に教えていたのです。

それが自分の中の何かを根本から打ち消す結果をもたらしてくれたのです。

それからというもの私は少しでも周りの人の役に立てるよう努めました。



その日は朝から雨が降りしきり、店は雨宿りがてらの客で蜂の巣をつついたような状況でした。

一人の女性客が

「すいません、トイレ詰まっていて使えないんですけど・・・」

この店のトイレは男女兼用で便器は一つだけ。

それが詰まったとなれば営業中止ともなりうる一大事。




私は急いでできうる手段を用いて回復を試みたが、水は溢れるばかり。

客の苦情が聞こえる中、修理屋を呼ぶ余裕などありません。

そこへ森さんが来て、白いワイシャツを二の腕までまくり上げたかと思うと、汚物が逆流している便器の中に素手を突っ込んだのです。



詰まっていたトイレットペーパーの固まりは見事に取り除かれ、便器の機能は回復しました。

「これじゃあ、いい男台無しだな。でもよかったな」

屈託のない笑顔。







私は唖然としてしばらく声がでず、金槌で頭を殴られたような衝撃が走ったことを覚えています。

いくら急を要するといえ、そこまでできる人はいません。

けちなプライドを持つよりもっと大切なこと、わかっているようで気付かないこと、人生において大事なことを森さんと働いた2年間ですべて教わったような気がします。



そのコミュニケーションはいつも言葉ではありませんでした。

その後、森さんは田舎の事情があって佐賀の方に帰郷することになりました。

「オレ田舎に帰って海苔づくりするよ。有明海だ、九州の方に来る機会があったら連絡してくれ」



森さんが去った後、私も店をやめ他の仕事に就くことになりましたが、それまでのことが、いかに他の方面でも役立った計りしれません。

いつも信頼という二文字が残っていくのがわかりました。

もしかしてあの人は神様だったかもしれないと思うのでした。
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潮文社・『心に残るとっておきの話』第三集より



この5年後、筆者は仕事で長崎に行った機会に、ホーム上で森さんと再開した喜びを記しています。

「これオレが作った海苔だ。東京へ帰ったら食ってくれ、うまいぞ」

“夢をみているようでした。疲れは一気に飛び、同時に何にも替えがたい悦びと涙が込み上げてどうすることもできませんでした。”と結んでいます。



筆者は、すばらしい人に巡り会いました。

しかし、感じるところがなければ、「ただ、いい人だった」で終わってしまいます。

筆者もまた、すばらしい人です。



あなたは汚物の便器の中に手を突っ込めますか?

躊躇(ちゅうちょ)せずに出来ることではありません。

私なら出来そうにありません。



それが出来るから偉いというわけではありません。

こうした人はいざという時に、どんな時にも 真価を発揮するとわかるからすばらしいのです。

いつの時代でも、場所を問わず、砂浜の雲母(きらら)のように、キラリと光る人がいますね。



こうした人間になりたいと願っているのですが・・。道遠し、です。

この話は、上に立つ者にとって、いい教訓を与えてくれています。

人を動かすのは言葉ではなく、手本をしめすこと、信頼されることなのだと教えてくれています。



怒鳴っているばかりの上司ではたまりません。

旧帝国海軍・連合艦隊長官の山本五十六の語録の中に、「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」とある。

厳しい訓練で鍛え、優秀な人材が沢山いたであろう旧海軍の長の言葉である。



思うように動かないからと叱りつける指導では駄目ですね。



2013年11月19日火曜日

『1リットルの涙』



『1リットルの涙』という日記があります。

この日記の作者は木藤亜也(愛知県・豊橋)さんという女性の方で、脊髄小脳変性病という、体を動かす働きをする小脳の細胞が減退してゆく難病に見まわれ、高校に入学する頃から病状が現われ出し、病気と闘いながら通学します。

しかし、病勢は止まらず、途中で養護学校に転校を余儀なくされ、遂にはベッドで寝たきりの生活の中でこの日記を書き綴ったのです。

25歳で亡くなりました。



「神様、病気はどうして私を選んだの?」



友達との別れ、車椅子の生活、数々の苦難が襲いかかる中、日記を書き続けることだけが亜也さんの生きる支えだった。

「たとえどんな小さく弱い力でも私は誰かの役に立ちたい」



『1リットルの涙』は、最期まで前向きに生き抜いた亜也さんの言葉が綴られた感動のロングセラーです。

映画化、テレビドラマ化されていますので、ご存知の方も多いかと思います。

彼女が在命中に出版され、大きな反響を呼びました。





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生きたいのです。

動けん、お金ももうけれん、人の役に立つこともできん。

でも生きていたいんです。

わかってほしいんです。



お母さん、わたしのような醜い者が、この世に生きていてもよいのでしょうか。

わたしの中の、キラッと光るものをお母さんなら、きっと見つけてくれると思います。



若さがない、張りがない、生きがいがない、目標がない……

あるのは衰えていく体だけだ。

何で生きてなきゃあならんかと思う。反面、生きたいと思う。



我慢すれば、すむことでしょうか。

一年前は立っていたのです。話もできたし、笑うこともできたのです。

それなのに、歯ぎしりしても、まゆをしかめてふんばっても、もう歩けないのです。

涙をこらえて

「お母さん、もう歩けない。ものにつかまっても、立つことができなくなりました」



後十年したら……、考えるのがとてもこわい。

でも今を懸命に生きるしかないのだ。

生きていくことだけで、精いっぱいのわたし。
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いま、彼女の残した日記や生きた証を知る事で、大勢の人たちが生きる事の大切さを再認識させられ、そして生きる勇気をもらっています。

彼女の「誰かの役に立ちたい」と言う思いは、いま尚、生き続けています。

1リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記 (幻冬舎文庫)