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2013年11月19日火曜日

『1リットルの涙』



『1リットルの涙』という日記があります。

この日記の作者は木藤亜也(愛知県・豊橋)さんという女性の方で、脊髄小脳変性病という、体を動かす働きをする小脳の細胞が減退してゆく難病に見まわれ、高校に入学する頃から病状が現われ出し、病気と闘いながら通学します。

しかし、病勢は止まらず、途中で養護学校に転校を余儀なくされ、遂にはベッドで寝たきりの生活の中でこの日記を書き綴ったのです。

25歳で亡くなりました。



「神様、病気はどうして私を選んだの?」



友達との別れ、車椅子の生活、数々の苦難が襲いかかる中、日記を書き続けることだけが亜也さんの生きる支えだった。

「たとえどんな小さく弱い力でも私は誰かの役に立ちたい」



『1リットルの涙』は、最期まで前向きに生き抜いた亜也さんの言葉が綴られた感動のロングセラーです。

映画化、テレビドラマ化されていますので、ご存知の方も多いかと思います。

彼女が在命中に出版され、大きな反響を呼びました。





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生きたいのです。

動けん、お金ももうけれん、人の役に立つこともできん。

でも生きていたいんです。

わかってほしいんです。



お母さん、わたしのような醜い者が、この世に生きていてもよいのでしょうか。

わたしの中の、キラッと光るものをお母さんなら、きっと見つけてくれると思います。



若さがない、張りがない、生きがいがない、目標がない……

あるのは衰えていく体だけだ。

何で生きてなきゃあならんかと思う。反面、生きたいと思う。



我慢すれば、すむことでしょうか。

一年前は立っていたのです。話もできたし、笑うこともできたのです。

それなのに、歯ぎしりしても、まゆをしかめてふんばっても、もう歩けないのです。

涙をこらえて

「お母さん、もう歩けない。ものにつかまっても、立つことができなくなりました」



後十年したら……、考えるのがとてもこわい。

でも今を懸命に生きるしかないのだ。

生きていくことだけで、精いっぱいのわたし。
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いま、彼女の残した日記や生きた証を知る事で、大勢の人たちが生きる事の大切さを再認識させられ、そして生きる勇気をもらっています。

彼女の「誰かの役に立ちたい」と言う思いは、いま尚、生き続けています。

1リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記 (幻冬舎文庫)


『お父さん、お母さん 愛してる』



子供を先に亡くしてしまう親の心情は察するに余るものがあり、特にそれが小さな子供だと、他人でも涙を誘います。

エレナちゃんは5歳のときにガンの宣告を受け、6歳でその短い生涯を終えました。

しかし彼女が亡くなったあとで、家族は彼女が残した小さな手紙を見つけました。



それは家族に向けて、エレナちゃんが愛情を込めて書いたメモだったのです。

それは1通だけではなく、あとからあとから何百通も、そして2年経っても、家中から出てくるそうです。

エレナちゃんはたった5歳のときに脳ガンと診断されました。



医者には余命135日と宣告され、そこから激しい病気との闘いが始まります。

心を痛めた両親は残された毎日が彼女にとって特別になるように、彼女とその妹のグレイシーちゃん4歳のために出来るだけのことをすることにしました。

彼女を守りたい一心で、死ぬかもしれないことは一切伏せていたそうです。



ガンに集中するのではなく、家族が一緒にいること、エレナちゃんがしたいことに集中したのです。







エレナちゃんは病気と闘っていた9ヶ月の間、家族の知らない間にメモを書いては家中に隠しておきました。

何百通と言う彼女の愛情のこもったメモが戸棚や引き出し、かばんや衣服の中から彼女が亡くなったあとで出てきたのです。

最初のメモはエレナちゃんが亡くなって数日後に引き出しの中から見つかりました。



さらにその後、いろいろな場所から無数の手紙が出てきたのです。

クリスマスの飾りが入っている袋からも出てきたそうです。



本が大好きで、大きくなったら先生になりたいと言っていたエレナちゃんのことを、その年齢の子よりいろいろ理解していたと両親は述べています。

「死を悟っていたとは思いたくはないが、もしかしたら知っていたのではないか」と父親のキースさんは語っています。

1ヶ月の放射線治療のあと彼女の症状は急激に悪化し、話せなくなり、体も麻痺していきました。



そして255日後、その小さな体は息を引き取ったのです。

「パパ、ママ、グレイシー大好き」など、数百通におよぶ絵が添えられた愛情いっぱいのメッセージは両親と妹、祖父母に向けられたもので、叔母が飼っているお気に入りの犬に向けたものまであったそうです。

両親は最後のメモを見つけたくないばかりに、1通を未開封のまま大事に残していると言います。



闘病生活の間の両親の大変さは聞くに堪えず、彼らがエレナちゃんのメモを見つけたときの心情は察するに余るものがあります。

ご冥福をお祈りします。



2013年11月11日月曜日

『ガンが治るくすり』



クリスマスの数日前、6歳の息子さんが欲しいものをサンタへの手紙に記していました。ご両親は「何が欲しいのかなぁ」と手紙を開けます。するとその手紙には切ない息子の祈りが詰まっていました。


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6歳の息子がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと妻とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてありました。



「サンタさんへ おかあさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」



妻と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃいました。



昨日の夜、息子が眠ったあと、妻は息子が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておきました。



朝、息子が起きるとガッチャマンの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げていました。







早速朝食を食べる妻の元にどたばたと行って



「ねえ! サンタさんからお母さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」

といって、妻に薬を飲ませました。



妻が「体の調子が、だんだんと良くなってきたみたい」と言うと息子が、



「ああ! 良かった~。これでお母さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」

……というと



妻がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めました。



私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えました。



妻は息子には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしていました。

その後、息子が近所の子に家にガッチャマンの人形を持って遊びに行った後、妻が

「来年はあなたがサンタさんだね……。しっかり頼むね」と言ったので、

つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けてしまいました。



お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざりました。




『父の唯一の我侭』



就職活動で大変だった大学三年のある日、お父さんから唐突に沖縄旅行に誘われたのですが、「今は大事な時期だから」と断ってしまいます。が、その事を後日に後悔することに…。


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「沖縄に行かないか?」

いきなり父が電話で聞いてきました。



当時、大学三年生で就活で大変な頃でした。
「忙しいから駄目」と言ったのですが父はなかなか諦めません。



「どうしても駄目なのか?」

「今大事な時期だから。就職決まったらね」

「そうか・・・」



父は残念そうに電話を切りました。急になんだろうと思ったが気にしませんでした。







それから半年後に父が死にました。癌でした。医者からは余命半年と言われてたらしいです。

医者や親戚には娘が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしいです。

父母私と三人家族で中学の頃、母が交通事故で死に、大変だったのに大学まで行かせてくれた父。

沖縄に行きたいというのは今まで私のためだけに生きてきた父の最初で最後のワガママでした。

叔父から父が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡されました。

パラパラとめくると写真が挟んであるページがありました。

絵日記には「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。

ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」



・・・というような事が書いてありました。



すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来ました。

私は大きくなったらお金を貯めて父を沖縄に連れていってあげる。というようなことをこの旅行の後、言ったと思います。

父はそれをずっと覚えていたのです。そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていました。

私は父が電話をしてきた時、どうして父の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。



もう恩返しする事が出来ない・・・

涙がぶわっと溢れてきて止められませんでした。




『学校に行きたい』



少女は病気の彼をうらやましく思っていました。理由はすぐに学校を早退できるからです。でも、彼の連絡帳を何気なく覘いたその時、少女は己の浅はかさを知ったのです。


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私が小学校5年生のとき、寝たきりで滅多に学校に来なかった男の子と同じクラスになりました。

その子、たまに学校に来たと思ったらすぐに早退するし、最初は



「あの子だけズルイなぁ・・・。」



なんて思ってました。

私の家、その子の家から結構近かったから私が連絡帳を届ける事になりました。



男の子のお母さんから連絡帳を貰って、先生に届けて、またお母さんに渡して・・・。

それの繰り返し。



「なんで私がこんな面倒臭い事しなくちゃいけないんだ!」

って、一人でブーたれてたのを良く覚えています。



そんなある日、私何となくその子の連絡帳の中を覗いてみました。

ただの興味本位だったんだけど。

連絡帳にはその男の子のものらしい豪快な字で、ページ一杯にこう綴られてました。



『今日もずっと家で寝てた。早く学校に行きたい。今日は窓際から男共の笑い声が聞こえてきた。学校に行けば、俺も輪に入れるのかな・・・。』



ショックでした。

学校行かないのって楽な事だと思ってたから。

ハンデがある分、ひいき目にされて羨ましいって思ってたから。







でも彼の文章には学校に行けない事の辛さ、普通にみんなと遊びたいって気持ちに溢れてて、なんだか私、普通に毎日学校に通ってんのが申し訳なくなって。

だから、連絡帳にこっそり書き込みました。



「いつでも、待ってるよ。体が良くなったら遊ぼうね!」

って。



でも次の日の朝、その子の家に行ったらその子のお母さんに

「もう、連絡帳は届けなくていいの。」

って言われました。

あまりにも突然でした。

私はその頃子供で、頭もあまり良くなかったのだけれど、その子のお母さんの言ってる意味は伝わってきました。



「この子は天国に行ったんだ。もう一緒に遊ぶ事は出来ないんだ・・・。」



そんな事考えたら涙が溢れて、止まらなくって・・・。

ずうっと泣き続けてた私に、その子のお母さんは連絡帳をくれました。

せめてあなただけは、学校にも行けなかったあの子を忘れないで欲しいって。



そんな私ももうすぐ30になろうとしています。

あの時の連絡帳は、引き出し下段の奥底にずっとしまったきりです。

就職したり、結婚したり、子供が出来たり・・・。

今まで、本当に色んな事がありました。

時には泣きたい事、辛い事の連続で、いっそ自殺しちゃおうかなんて思った事もありました。

けど、そんな時はいつも引き出しを開けて、男の子の連絡帳を開きます。

そして、彼が亡くなる直前に書かれた文章を読み返します。



『ありがとう、いつかきっと、遊ぼうね。』



2013年10月9日水曜日

『人生のいろいろ』



交通事故をきっかけに、お母さんが鬱になってしまいました。
頼れる者もない状況の中で、受験を控えた中学3年生の娘さんが、辛い日々の様子やお母さんへの想いを語りました。


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文へたくそだけどよかったら読んでください



わたしが中3の時の話



元々母さんは精神病を患ってました。
でもわたしが生まれる何年も前に、ほとんど完治してたらしくて、わたしは全然病気の心配何かしてませんでした。



そんなある日、母さんが事故にあいました。
どうやら曲がり角のところで車に跳ねられたらしいです。
幸い命に別状はなかったのですが、右腕と右足がほとんど動かなくなり、さらに動くと首にも激痛が走るらしかったです。
元々活発だった母は、動いたり外に出ることができなくなって、段々うつ状態になっていきました。



そして、治っていたはずの病魔がだんだんと動き始めました。



そん時は地獄のようでした。
わたしが今まで見たこと無い母さんが現れるんです。



毎日毎日、その日によって性格が変わるんです。
暴れだしたり、かと思えば泣きだしたり、わたしに暴言をはいたり…帰ってきたら母さんが首に縄巻いてるんです…

包丁持ってたり、わたしに包丁つきつけて
「一緒に死のうか…よしえちゃん…」
って言ったこともありました。



ホントに辛かったです。



父は父で仕事が忙しくて、ほとんど海外にいました。
頼れる親戚も兄弟もいませんでした。おまけにわたしは受験でした。
いろんな不安で心が押しつぶされそうになりました。





これはさすがに家族には手に負えないってなって、精神病院に入院することになりました。
入院先は閉鎖病棟。
面会に行った時、閉鎖病棟の隅っこで小さくなってわたしの名前を泣きながら叫んでる母さん見たときはホントに泣きそうになりました。



すこしだけど良くなって、母さんが家に戻ってきました。
叫んだりはしなくなったけど、こんどは記憶の感覚がごちゃまぜになりました。
中3のわたしが2歳になったり、8歳になったり、時には死んだ母さんの弟になったり…



それでも行動的なところだけは昔のままで、歩けないのに歩こうとして転んで血を流すなんてしょっちゅうでした。
普通ならわたしがどうにかしなきゃいけないんだけど、どうしても勉強で忙しくて、見て見ぬふりしてました…



入試前日、わたしが学校から帰ってくると、母さんがいろんなところに擦り傷作って台所に横になっていました。
足もとには大きな買い物袋… どうやら買い物行って来て、そこらじゅうで転んで擦り傷作ったらしいです。



色んなとこから血出しながらサンドイッチ作ってたんです。
わたしが小さい頃一番好きだった母さんのサンドイッチ



「よしえちゃん喜ぶかな? よしえちゃん…よしえちゃん…」
って泣きながらわたしの名前呼んでました…



「明日は一緒に、お出かけしようね」とか、「明日は運動会だね」とか色々言ってました。
なぜか知らないけど明日は特別な日ってことだけは知ってんだな…
とか思いながら、



そしたら急に泣き出してこう言いました。



「よしえちゃん… お母さんはどうなっちゃうんだろ… よしえちゃん…よしえちゃん…」
ず~っとわたしの名前を呼ぶんです。 立ってるのも辛いはずなのに、泣きながら…



ホントに切なかった。



次の日、母さんのサンドイッチを持って入試に行きました。
昼飯食った後の5時間目の社会。
なんでかわかんないけど眠くなっちゃって、一問も解かずに眠っちゃっいました。



そん時見た夢はいまでも覚えてる。

わたしが母さんに抱きしめられてた夢だった。



『あなたは素晴らしいんだから』



わたしが3歳の時、父が亡くなり、
そのあとは母が女手一つでわたしを育ててくれた

仕事から帰ってきた母は疲れた顔も見せずに、
晩ごはんを作ってくれた。

晩ごはんを食べた後は内職をした。
毎晩遅くまでやっていた。



母が頑張ってくれていることは
よく分かっていた。

だけど、わたしには不満もいっぱいあった。

わたしが学校から帰ってきても
家に誰もいない。



夜は夜で母は遅くまで内職。
そんなに働いているのに、
我が家は裕福ではなかった。

遊園地にも連れて行ってもらえない。
ゲームセンターで遊ぶだけの
小遣いもくれない。



テレビが壊れた時も半年間かってもらえなかった。

わたしはいつしか母に強く当たるようになった。

「おい」とか「うるせー」とか
生意気な言葉を吐いた。

「ばばあ」と読んだこともあった。



それでも、母はこんなわたしのために
頑張って働いてくれた。

そして、いつもわたしに優しかった。

小学校6年の時、初めて運動会に来てくれた。
運動神経の鈍いわたしは、かけっこでビリだった。
悔しかった。



家に帰って母はこう言った。
「かけっこの順番なんて気にしなくていい。
あなたは素晴らしいんだから」
だけど、
わたしの悔しさはちっともおさまらなかった。

わたしは学校の勉強も苦手だった。
成績も最悪。
自分でも劣等感を感じていた。

だけど、母はテストの点や通知表を
見るたびにやっぱりこう言った。



「大丈夫。あなたは素晴らしいだから」

わたしには何の説得力も感じられなかった。
母に食ってかかったこともあった。

「何が素晴らしいんだよ。どうせわたしはダメ人間だよ」
それでも母は自信満々の笑顔で言った。



「いつか分かる時が来るよ。
あなたは素晴らしいだから」

わたしは中学2年生になったころから、
仲間たちとタバコを吸うようになった。

万引きもした。
他の学校の生徒とケンカもした。
母は何度も学校や警察に呼び出された。

いつも頭を下げて、
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」
と謝った。



ある日のこと。

わたしは校内でちょっとした事件を起こした。
母は仕事を抜けて学校にいつものように謝った。

教頭先生が言った。
「お子さんがこんなに
“悪い子”になったのはご家庭にも
原因があるのではないですか」



その瞬間、母の表情が変わった。
母は、明らかに怒った目で教頭先生を
にらみつけてきっぱりと言った。

「この子は悪い子ではありません」
その迫力に驚いた教頭先生は言葉を失った。

母は続けた。
「この子のやったことは間違っています。
親の私にも責任があります。
でも、この子は悪い子ではありません」

わたしは思い切りビンタを食らったような
そんな衝撃を受けた。



わたしはわいてくる涙を抑えるのに必死だった。
母はこんなわたしのことを本当に
素晴らしい人間だと思ってくれていたんだ…

あとで隠れてひとりで泣いた。

翌日からわたしはタバコをやめた。
万引きもやめた。
仲間たちからも抜けた。

その後、中学校を卒業したわたしは
高校に入ったが、肌に合わなくなって
中退した。





そして、仕事に就いた。
そのときも母はこう言ってくれた。
「大丈夫。あなたは素晴らしいんだから」

わたしは心に誓った。

「これからわたしが頑張って
お母さんに楽してもらうぞ」



だけど、なかなか仕事を覚えられなくて、
よく怒鳴られた。

「何度同じことを言わせるんだ!!」
「少しは頭を働かせろ!」
「あなたはホントにダメなやつだな!!」

怒鳴られるたびに落ち込んだけど、
そんなときわたしの心には母の声が聞こえてきた。



「大丈夫。あなたは素晴らしいのだから」

この言葉を何度もかみしめた。
そうすると、元気がわいてきた。

勇気もわいてきた。

「いつかきっとわたし自身の素晴らしさを
証明してお母さんに見せたい」

そう考えると、わたしはどこまでも頑張れた。



仕事を始めて半年くらい経った時のことだ。
仕事を終えて帰ろうとしていたら
社長がとんできて言った。

「お母さんが事故にあわれたそうだ。
すぐに病院に行きなさい」

病院に着いた時母の顔には
白い布がかかっていた。



わたしはわけがわからなくなって何度も
「お母さん!」
と叫びながらただただ泣き続けた。

わたしのために身を粉にして働いてくれた母。
縫い物の内職をしているときの
母の丸くなった背中を思い出した。

母は何を楽しみにして頑張って
くれてたんだろう?
これから親孝行できると思っていたのに。
これから楽させてあげられると
思っていたのに。



葬式の後で親戚から聞いた。
母が実の母ではなかったことを。

実母はわたしを産んだ時に亡くなったらしい。
母はそのことをいつか
わたしに言うつもりだったんだろう。

もしそうなったらわたしはこう伝えたかった。
「血はつながっていなくても
お母さんはわたしのお母さんだよ」



あれから月日が流れ、わたしは35歳になった。

今改めて母にメッセージを送りたい。

お母さん
わたしとは血がつながっていなかったんだね。
そんなわたしのために昼も夜も働いてくれたね。
そして、お母さんはいつも言ってくれた。

「あなたは素晴らしいんだから」

その言葉はどんなにわたしを救ってくれたか。
どんなにわたしを支えてくれたか。
あれからわたしなりに成長して、
今は結婚して子どももいるよ。



規模は小さいけど、
会社の社長になって社員たちと
楽しくやっているよ。

まだまだ未熟なわたしだけど、
わたしなりに成長してきたと思う。

その成長した姿をお母さんに見せたかったよ。

「あなたは素晴らしい」
と言ってくれたお母さん。



その言葉は間違っていなかったっていう
証拠を見せたかった。
そして、
それを見せられないことが残念でならなかった。

だけど、最近気づいたんだ。

お母さんは最初から
わたしの素晴らしさを見てくれてたんだね。



証拠なんてなくても心の目で
ちゃんと見てくれてたんだね。

だって、お母さんが
「あなたは素晴らしいんだから」
って言う時はまったく迷いがなかったから。

お母さんの顔は確信に満ちていたから。

わたしも今社員たちと接していて、
ついついその社員の悪いところばかりに
目が行ってしまうことがある。



ついつい怒鳴ってしまうこともある。
だけど、お母さんの言葉を思い出して、
心の目でその社員の素晴らしさを
見直すようにしているんだ。

そして、心を込めて言うようにしている。
「きみは素晴らしい」

おかげで、社員たちといい関係が築けて、
楽しく仕事をしているよ。



これもお母さんのおかげです。

お母さん
血はつながっていなくても、
わたしの本当のお母さん。

ありがとう。



2013年10月2日水曜日

『サイン帳の話』



「サイン帳の落とし物はないですか??」

インフォメーションセンターにひとりのお父さんが元気なく入ってきました。

落としたサイン帳の中身を聴くと、息子さんがミッキーやミニーに一生懸命に集めたサインがあともう少しでサイン帳一杯になるところだったそうです。



でも、残念ながらインフォメーションセンターには、サイン帳は届けられていませんでした。・・・・・

キャストはサイン帳の特徴を詳しく聴いて、あちこちのキャストに連絡を取ってみました。



しかし、見かけたキャストは誰一人としていませんでした。

「お客様、申し訳ございません。まだ見つからないようです。お客様はいつまで滞在されていますか??」

と伺ったところ、お父さんが言うには、2日後のお昼には帰らなければならないとのこと。・・・



「手分けして探しますので、2日後、お帰りになる前にもう一度インフォメーションセンターに立ち寄っていただけますか??」

と笑顔で声をかけたそうです。



そして、お父さんが帰られた後も、細かな部署に電話をかけて聴いてみたり、自分の足で探しにも行ったそうです。

ところが、どうしても見つけ出すことができず、約束の2日後を迎えてしまいました。


「見つけることができませんでした。申し訳ございません」

「代わりにこちらのサイン帳をお持ちください」


それは、その落としたサイン帳と全く同じサイン帳を自分で買って、いろんな部署を回って、全てのキャラクターのサインを書いてもらったものを手渡したんです。

お父さんがビックリして、喜ばれたのは言うまでもありません。



後日、ディズニーランドにこのお父さんから、一通のお手紙が届きました。

先日は「サイン帳」の件、ありがとうございました。

実は連れていた息子は脳腫瘍で、「いつ死んでしまうか分からない」…そんな状態のときでした。





息子は物心ついたときから、テレビを見ては、

「パパ、ディズニーランドに連れて行ってね」

「ディズニーランドに行こうね」

と毎日のように言っていました。



「もしかしたら、約束を果たせないかもしれない」…そんなときでした。



「どうしても息子をディズニーランドに連れていってあげたい」

と思い、命があと数日で終わってしまうかもしれないときに、無理を承知で、息子をディズニーランドへ連れて行きました。



その息子が夢にまで見ていた大切な「サイン帳」を落としてしまったのです。



あのご用意いただいたサイン帳を息子に渡すと、

「パパ、あったんだね!パパ、ありがとう!」

と言って大喜びしました。



そう言いながら息子は数日前に、息を引き取りました。



死ぬ直前まで息子はそのサイン帳を眺めては、

「パパ、ディズニーランド楽しかったね!ありがとう!また行こうね」

と言いながら、サイン帳を胸に抱えたまま、永遠の眠りにつきました。



もし、あなたがあの時、あのサイン帳を用意してくださらなかったら、息子はこんなにも安らかな眠りにつけなかったと思います。

私は息子は「ディズニーランドの星」になったと思っています。

あなたのおかげです。本当にありがとうございました。



…手紙を読んだキャストは、その場で泣き崩れたそうです。

もちろん、その男の子が亡くなった悲しみもあったと思いますが、

「あの時に精一杯のことをしておいて、本当に良かった」

という安堵の涙だったと思うんです。



2013年9月30日月曜日

『お兄ちゃん帰ってきて』



私には、兄がいました。

3つ年上の兄は、妹想いの優しい兄でした。

ドラクエ3を兄と一緒にやってました。(見てました。)

勇者が兄で、僧侶が私。遊び人はペットの猫の名前にしました。

バランスの悪い3人パーティ。兄はとっても強かった。

苦労しながらコツコツすすめた、ドラクエ3。おもしろかった。

たしか、砂漠でピラミッドがあった場所だったと思います。

とても、強かったので、大苦戦してました。



ある日、兄が友人と野球にいくときに、私にいいました。

「レベ上げだけやってていいよ。でも先には進めるなよ。」

私は、いっつもみてるだけで、よくわからなかったけど、

なんだか、とてもうれしかったのを覚えてます。

そして、その言葉が、兄の最後の言葉になりました。





葬式の日、父は、兄の大事にしてたものを棺おけにいれようとしたのを覚えてます。

お気に入りの服。グローブ。セイントクロス。そして、ドラクエ3。

でも、私は、ドラクエ3をいれないでって、もらいました。

だって、兄から、レベ上げを頼まれてたから。



私は、くる日もくる日も時間を見つけては、砂漠でレベ上げをしてました。

ドラクエ3の中には、兄が生きてたからです。

そして、なんとなく、強くなったら、ひょっこり兄が戻ってくると思ってたかもしれません。

兄は、とっても強くなりました。とっても強い魔法で、全部倒してしまうのです。



それから、しばらくして、ドラクエ3の冒険の書が消えてしまいました。

その時、初めて私は、泣きました。 ずっとずっと、母の近くで泣きました。



お兄ちゃんが死んじゃった



やっと、実感できました。

今では、前へ進むきっかけをくれた、冒険の書が消えたことを、感謝しています


『一粒の豆よ「ありがとう」』



ヒロインは一人のお母さんです。

もう30年近くお目にかかっていませんが、元気でお過ごしになっていると思います。
年齢は私とほぼ同じです。十数年前に九州の某所で偶然ばったりとお会いしたきりです。


「あ、暫くでした。お元気で何よりです。お子さん達は?」
「お陰様で無事に暮らしております」
「もう大きくなられたでしょう」
「先生、大きいどころではございません。長男には孫がおりますし、下の子もまもなく結婚します」

「そうですかァ、月日のたつのは早いものですね。あの頃のお子さんは・・・・・」
「はあ、上が小学校の五年生頃でしたかねえ、下の子が三つ年下でしたから・・・・・」


 その二年前にご主人が自動車事故に遭遇しました。
のちに私は確認のために事故の現場に立ったことがあるのですが、どちらが悪いのかわからない微妙な事故でした。
それにもかかわらず、ご主人は救急車で病院に入りましたが、二時間後に亡くなられ、不幸は追い討ちをかけて、加害者と認定されてしまったのです。相手の方も重傷でした。弁償に当てるために残された家や小さな土地を売り払い、お母さんは二人の幼い子を連れて、知り合いの人の情にすがって、転々と居を移しました。最後にある方のご好意で納屋を提供され、そこに住みました。

中は六畳一間程の広さしかない上に、納屋ですから押入れもありません。電線を引き込んで裸電球をつけました。昼間でも明かりをつけておかないと、室内は真っ暗です。外にあった水道を使わせてもらい、煮炊きは七輪に火を起こしてやりました。


 お母さんは生活を支えるために、朝は五時に起きて朝食の仕度をし、六時には家を出て、近くのビルを一人で各階すべてを掃除する仕事をし、一旦家に戻って食事をすませると、今度は子供達が通う小学校で給食のお手伝いをやり、夜は料亭の板場でお茶碗やお皿を洗うという毎日が、一年中続きました。

ご主人が亡くなられた後の整理もそこに重なって、お母さんの疲労は積み重なっていきました。子供達が二人とも健康で明るい性格であったのがただ一つの救いでしたが、二年もすると、さすがに疲れ果てました。

果たしてこれで生きていけるのかしら、いっそのこと子供と一緒に死んでしまったほうが、子供達のためにも幸せであるかもしれないと思い詰めるようになってきました。


 ある日のこと、いつものように朝早く家を出ようとするときに、お母さんはお兄ちゃんがまだすやすや寝ている枕許に、一通の置き手紙を書きました。

―お兄ちゃん、今夜は豆を煮ておかずにしなさい。七輪に火を起こして、お鍋に豆を浸しておいたからそれをかけて、豆が柔らかくなったら、おしょう油を少し入れなさいー

文字通り薄いせんべい蒲団の中で、体を寄せ合って眠っている二人の子に、もう一度蒲団を寒くないように掛け直すと、まだ暗い中を働きに出ました。




 自殺する人の多くは、瞬時に死を決意するそうですが、その日は普段よりも一層強く子供達と一緒に死んでしまおうとお母さんは意識していたそうです。  どういう風にして手に入れたかは聞いていませんが、お母さんは睡眠薬を多量に買い込んで家に戻りました。

心身共に疲れ切っていて、納屋の戸を、すでに寝ている子供達にがたぴしという音を聞かせないように開けるのさえ容易でありませんでした。


 薄暗い豆電球を一つつけただけで二人は眠っていました。
普段から電気代を節約しなくては駄目よと言ってあるのを、子供達はよく守っていてくれているようでした。

寒いけれども七輪に火を起こす気にもなれず、お母さんは板張りの床の上に敷いたゴザの上に、べったりと座り込んでしまいました。
どうしたらこの子達に睡眠薬を飲ませることが出来るのか、恐ろしい空想が頭の中を駆けめぐりました。


 お母さんはふと気がつきました。
お兄ちゃんの枕許に紙が置いてあり、そこに何か書いてあるようなのでした。
お母さんはその紙を手に取りました。
そこにはこう書かれていたのでした。


―お母さん、おかえりなさい。お母さん、ボクはお母さんの手紙にあった通りに豆をにました。
豆がやわらかくなった時に、おしょうゆを少し入れました。
夕食にそれを出してやったら、お兄ちゃんしょっぱくて食べられないよと言って、弟はごはんに水をかけて、それだけ食べて寝てしまいました。
お母さん、ごめんなさい。でもお母さん、ボクはほんとうに一生けんめい豆をにたのです。
お母さん、あしたの朝でもいいから、僕を早く起こして、もう一度、豆のにかたを教えてください。
お母さん、今夜もつかれているんでしょう。お母さん、ボクたちのためにはたらいてくれているんですね。
お母さん、ありがとう。おやすみなさい。さきにねます・・・――



 読み終わった時、お母さんの目からはとめどなく涙が溢れました。
「お兄ちゃん、ありがとう、ありがとうね。お母さんのことを心配してくれていたのね。ありがとう、ありがとう、お母さんも一生懸命生きて行くわよ」
お母さんはそうつぶやきながら、お兄ちゃんの寝顔に頬ずりをし、弟にもしました。

納屋の隅に落ちていた豆の袋を取上げてみると、煮てない豆が一粒入っていました。
お母さんはそれを指でつまみ出すと、お兄ちゃんが書いた紙に大切に包みました。


 その時からお母さんは紙に包んだ豆を、いつも肌身離さずに持っています。
「もしお兄ちゃんがこの手紙を書いてくれなかったら、私達はお父さんを追って天国へ行っていたことでしょう。いいえ、私だけが地獄へ落とされたと思います。その私を救ってくれたのは、お兄ちゃんの『お母さん、ありがとう』の言葉でした」

「今でも?」と聞きますと、お母さんはハンドバックを開けて、すっとあの一粒の豆が入った小さな紙包みを取り出して見せてくれました。


「お兄ちゃんには話したのですか」
「いいえ、私がほんとうに死ぬ時に、あの子にありがとうを言うために、それまではそっと自分だけのものにしておきたいと思っています。私の人生の最高の宝物です」
いま、日本の広い空の下に、一粒の豆を包んだ紙を大切に身につけているお母さんが、どこかに一人いるのです。私もお母さんの秘密を守って行きます。

私のほうがたぶんお母さんより先にこの世を失礼するはずですので、秘密を守り切れると信じています。


ありがとう物語(鈴木健二著、発行:モラロジー研究所)から・・・



2013年9月26日木曜日

『一度きりのお子様ランチ』


東京ディズニーランド・ワールドバザールにあるレストランで実際にあった話です。

二人連れの若い夫婦がレストラン「イーストサイド・カフェ」に食事に行きました。

キャスト(ウェイトレス)が2人を二人がけのテーブルに案内してメニューを渡しました。

2人はAセットとBセットを一つずつ注文し、そして、オーダーし終わったとき、奥様が一つ追加で注文をしました。

「お子様ランチをひとつ下さい」

と・・・


キャストは

「お客様、誠に申し訳ございませんがお子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文は頂けないのですが・・・」

と丁寧に断りました。


すると二人は顔を見合わせて複雑な残念そうな表情を浮かべました。

その表情を見てとったキャストは

「何か他のものではいかがでしょうか?」

と聞きました。

すると、二人はしばらく顔を見合わせ沈黙した後、奥様が話出しました。

「実は今日は昨年亡くなった娘の誕生日だったのです。私の身体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。子供がおなかの中にいる時に主人と3人でこのレストランでお子様ランチを食べようねって言っていたんですが、それも果たせませんでした。子供を亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっとおちついて、亡き娘にディズニィーランドを見せて三人で食事をしようと思ったものですから・・・」



その言葉を聞いたキャストは2人を四人がけのテーブルに案内し、仲間に相談して全員の賛成を得て、お子様ランチのオーダーを受けました。

そして小さな子供用の椅子を持ってきて

「お子様の椅子はお父様とお母様の間でよろしいでしょうか?」

と椅子をセットしました。


その数分後・・・

「お客様、大変お待たせしました。ご注文のお子様ランチをお持ちしました」

とテーブルにお子様ランチを置いて笑顔で言いました。

「どうぞ、ご家族でごゆっくりお楽しみください」



数日後、お客様から会社に感謝の手紙が届きました。

「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。こんな体験をさせていただくとは夢にも思いませんでした。これからは涙を拭いて生きて行きます。また行きます。今度はこの子の弟か妹を連れて・・・」



参考:「しあわせを感じる喜び」林 覚乗著、文芸社

2013年9月25日水曜日

『おかあさん、ぼくが生まれて ごめんなさい』



「母への感謝を綴った詩に涙」というタイトルで石川県に住む主婦、高崎千賀子さんの投書が新聞に掲載され感動の輪が広がっています。



『「美術館なんて趣味に合わないし、書道なんてつまらない・・・」という女子高生の一団の言葉が、 美術館でボランティア監視員をしていた私の耳に入り、思わず口にしてました。 「あそこにお母さんのことを書いた書があるの。お願いだからあの作品だけは読んでいって」と・・。

女子高生たちは不承不承、私の指した書を鑑賞しました。すると一人がすすり泣き、そこにいた生徒全員が耐え切れずに、泣き出したのです。

その書は生まれたときから母に抱かれ背負われてきた脳性マヒの人が、世間の目を払いのけて育ててくださった、強いお母さんへの感謝の気持ちを綴った詩でした。「今の健康と幸福を忘れていました」と高校生たちは話し、引率の先生方の目もうるんでいました』



この詩の作者は山田康文くん。生まれた時から全身が不自由で書くことも話すことも出来ない。 養護学校の向野先生が康文くんを抱きしめ投げかける言葉が康文くんのいいたい言葉の場合はウインクでイエス、 ノーの時は康文くんが舌を出す。

出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけで1ヶ月かかったという。気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。そしてその2ヶ月後、康文くんは亡くなりました。



ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくはいう
ぼくさえ 生まれなかったら
かあさんの しらがもなかったろうね
大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に 泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら


ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが 大切で
悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん
おかあさん
あなたがそこに いるかぎり

(山田康文)





山田康文くんは1960年奈良県桜井市に生まれました。山田家の次男で体重は2,700グラム、家族は大喜びでした。しかし生後12日目から熱が続き黄疸が出てきました。乳首を吸う力がなくお母さんは異常に気づき奈良県立医科大学の門をくぐりました。精密検査の結果は脳性マヒでした。

難産で康文くんの脳が酸素欠乏を起こしたか、脳内出血したかが原因でした。お母さんの京子さんは万一を願い数々の病院を廻りました。ハリ、指圧の治療、あらゆる治療法を行いました。宗教団体にも入信しました。

しかし康文くんの症状はいっこうに良くなりませんでした。お母さんは康文くんと一緒に死ぬことを考えました。しかし死を押しとどめたものは家族ぐるみの愛と康文くんの生きる意欲でした。




康文くんは8歳の時、奈良の明日香養護学校に入学しました。不自由児のための特殊学校で、康文くんも母子入学でした。康文くんは明るい子でクラスの人気者になりました。1975年4月には体の不自由な子供達が集う「タンポポの会」が「わたぼうしコンサート」を開き、康文くんの詩が披露されました。
このコンサートはテレビ、ラジオでも取上げられ森昌子さんが康文くんの詩を歌いました。

このコンサートのあと、康文くんは突然天国に行ってしまいました。窒息死でした。横になって寝ていたとき、枕が顔を覆ってしまったのです。お母さんは毎日泣き通しでした。

康文くんの死後、お母さんの京子さんは「たんぽぽの家」の資金集めに奔走し、兄の英昭さんは脳性マヒの治療法を研究するため医大に進みました。




平成12年1月、七尾市にある願正寺の住職で書道家の三藤観映さんが康文くんの詩を読み感動して筆を取りました。金沢市で開催された「現代美術展」に出展した三藤さんの作品は多くの人に感動を与えました。

今から30年ほど前の詩が三藤さんの書によって多くの人の感動を呼び、絶版になっていた『お母さん、ぼくが生まれて ごめんなさい』が25年ぶりに復刊しました。

康文くんの先生で、この本の著者の向野幾代さんは復刊にあたって「あの子の詩は障害者が『ごめんなさいね』なんて、言わなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね。いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。



『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。だから康文くんたちは私たちの先輩。世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」と・・・


参考:お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい (扶桑社文庫)