2013年11月27日水曜日

『卒業文集最後の二行』



傲岸で不遜きわまりない性格の私は「たまには反省しても、決して後悔はすべきではない」と自分に言い聞かせて、それを生活信条としている。

だが、こんな私でもこの場を借りて懺悔したい、いや、せずにはいられない出来事がある。

深い後悔、取り返しのつかない心の傷だ。



時は、青森県五所川原市の小学校時代にさかのぼる。

同級生にT子さんという女の子がいた。

彼女は早くしてお母さんを亡くし、二人の弟さんの面倒もみなければならなかった。



お父さんは魚の行商である。

仕事があまり芳しくないようで、経済的にも恵まれず、その頃の時代にしても彼女の服装はみすぼらしいというより、正直言って汚かった。

今にして思えば、母親がわり妻がわりという生活環境から、自分の身の回りをかまっているどころではなかったのだろう。



生意気で口の悪い私は、先頭になって彼女をけなした。

そのT子さんが、6年生のとき私の隣になった。



「きたねえから、もっと離れろ」

「シラミを移すなよ」(当時でもシラミはいなかった)

この私の言葉にまわりの悪童達は、さらにはやしたてた。



「魚の生ぐさい臭いがしてくるから、T子に寄るな」

「T子、同じ服を何週間着てるんだバ」

「毎日風呂さ入って頭洗って、シラミさ取って来い」



こうした嫌がらせ、いじめに彼女は涙を見せずに歯をくいしばって、じっと耐えていた。

泣いたりするともっといじめられると思ったのであろう。

担任に告げ口もしなかった。



我々はそれを知って、さらに輪をかけて口汚くののしり続けた。

そんなある日、クラスで漢字の小テストが行われた。

どうしても書けない漢字が、私に二個あった。



私はT子さんの答案用紙を覗き、カンニングした。

後日、答案返却があり、その際に先生が私を誉めてくれた。

「イチノヘ、よく頑張ったな。満点はお前ひとりだけだぞ」



私は後ろめたさを少し感じたが満足だった。

その後、愕然となった。T子さんは1個だけの間違いで98点なのだ。

私がカンニングをしなければ、彼女が最高得点者となる。





「さすがイチノヘさんね。おめでとう」

「ハハ、問題がやさしかったからな」

まったく愚かで、鼻持ちならない私、実に情けない。



30年を経た今でも慙愧(ざんき)に耐えない。

さらに、彼女にひどい追い打ちが待っていた。

授業の後、悪童どもが



「イチノヘの答えを見て書いたんだろう」

「お前が98点も取れるわけがねえよ」

「カンニングしてまで、いい点を取りたかったのか」



私も連中の尻馬に乗る発言をしてしまった。

「やっぱり、おめえは私の答えを見たんだろう。見だに決まってる。ずるいと思わねえか」

「私はイチノヘさんの答えを見でいません。着てるものは汚えかもしれないが、心は汚ぐねえ」



「どこまでワをいじめれば、気がすむの!」

とその場から泣きながら外へ飛び出して行った。

悪童どもは彼女の初めての涙に言葉を失った。



「卒業文集」のT子さんの作文の最後の二行である。

『・・・私の今一番欲しいのは母ではなく、本当のお友達です。そしてきれいなお洋服です』



現在、私は圧倒的に女子の多い大学で教壇に立っているが、機会あるごとに後悔と反省の気持ちから、この小学校時代の「悪事」を語って聞かせることにしている。

反面教師といわれようとも、せめてもの罪ほろぼしとして。

ただ語るたびに困ることがある。



喋っている私が学生の前で、つい涙を見せてしまうことと、聞いている学生も泣き出してしまうことである。

あの「卒業文集」の最後の二行は、大きな衝撃だった。

大いなる悔いを与えてくれた。あの二行を読まなかったなら、現在の私はどうなっていたであろう。

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新潮社 心に残るとっておきの話〈第2集〉 より




原文の文量は上記の2倍はあるのですが、長くなるので中略してあります。

現在は、学校における「いじめ」が大きく社会問題となっている。



担任を信頼していないことや「告げ口」したことによる反動を恐れるために、子供の世界のいじめは把握しにくい。

抵抗、反抗しない弱者に対して、いじめは益々エスカレートしていく。

学校の道徳授業に対して、「価値観の押し付けだ」という、伝統的な批判がある。



単に『いじめはダメですよ』と教師が言いたいことをストレートに言うだけでは、生徒の心に伝わらない。

そのことが伝わる資料を探して、生徒自身が問いを重ねることで気付かせる。

その方が生徒はよく考える。



そうしたことからその資料になったのが、ここに掲げた『卒業文集最後の二行』である。

複数の道徳副読本に採用されているという。



『妹への手紙』



静(しい)ちゃんへ

おわかれの時がきました。

兄ちゃんはいよいよ出げきします。

この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。



思いがけないお父さん、お母さんの死で、幼ない静ちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちゃんのかたみとして静ちゃんの名であづけていたゆうびん通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上るときにつかって下さい。

時計と軍刀も送ります。これも木下のおじさんにたのんで、売ってお金にかえなさい。


兄ちゃんのかたみなどより、これからの静ちゃんの人生のほうが大事なのです。

もうプロペラがまわっています。さあ、出げきです。ではお兄ちゃんは征きます。

泣くなよ静ちゃん。がんばれ!



兄ちゃんより

「大野沢威徳からの手紙」(万世基地から)
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大石静恵ちゃん、とつぜん、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思います。

わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。

伍長どのは今日、みごとに出げきされました。



そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちゃんのつくったにんぎょうを、大へん大事にしておられました。

伍長どのは、突入する時に、にんぎょうがこわがると可哀そうと言って、おんぶでもするように背中につっておられました。





飛行機にのるため走って行かれる時など、そのにんぎょうがゆらゆらとすがりつくようにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちゃんといっしよに居るつもりだったのでしょう。

同行二人・・・・仏さまのことばで、そう言います。



苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽっちではない。

いつも仏さまがそばにいてはげましてくださる。

伍長どのの仏さまは、きっと静恵ちゃんだったのでしょう。



けれど、今日からは伍長どのが静恵ちゃんの”仏さま”になつて、いつも見ていてくださることゝ思います。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。

静恵ちゃんも、りっぱな兄さんに負けないよう、元気を出してべんきょうしてください。



さようなら
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旧かな使いは読み辛いので直しました。

彼らの胸の内を思うと何とも切ないものがあります。

私自身、涙を誘う遺書の類は出来ることなら接したくはないな、と思うのですが、もう一人の私は、一人でも多くの若い人にこういった遺書を読んでもらいたいのです。



戦争のことなど歴史の授業でほんの少し触れるだけで、若い人の中には、かつて日本がアメリカと戦争したことすら知らない輩もいると聞きます。

年表だけで戦争を知るのではなく、戦争に涙してもらいたいのです。

当時の若者の運命、生命を翻弄した戦争の非情さ、残酷さを知っていてもらいたい。



またそれを語り継いでもらいたいと願うものです。

それが彼らの生きた証になるのですから。



『私を変えた人』



その頃の私は、非行少年のレッテルを張られていることを名誉とさえ思え、悪友と粗暴な行動の毎日。

高校だけは曲がりなりに卒業し、就職したものの、長続きするわけもなく、その後は3ヶ月おきに職を変え、まさに地に足が付かぬ日々を過ごしていました。

真面目にコツコツ働く一部の大人達が哀れに見え、命令口調で怒鳴りまくる上司に未熟者の私は、「てめぇら、なめんじゃねぇぞ!ばかやろう!」と、愚かさを繰り返し、職を変えていました。



そうした中で、西新宿の小さな喫茶店で働くことになりました。

異常な回転率で目まぐるしく出入りする客。

私より4つ上である細身の森さんは、次から次と襲うオーダーを手際よくこなしていました。



飲食業が初めての私は失敗の連続。

そんな繰り返しが1ヵ月と続き、足手まといの連続。

普通であれば怒鳴り声がとぶか、首になっても文句が言えない状況でした。



そんな不手際を森さんは笑顔で見守ってくれ、そればかりか普通は下の人間がやるべき汚い仕事や、いやな仕事の一切を自分でやる人でした。

客が引いた時などは私を休ませてくれて、皿洗いや片付けをする。

最初はこの店の方針がそうかなと思っていましたが、遅番の仕事ぶりをみて、どうやら自分の思い上がりに気付きました。



森さんは言葉ではなく、自らの行動で私に教えていたのです。

それが自分の中の何かを根本から打ち消す結果をもたらしてくれたのです。

それからというもの私は少しでも周りの人の役に立てるよう努めました。



その日は朝から雨が降りしきり、店は雨宿りがてらの客で蜂の巣をつついたような状況でした。

一人の女性客が

「すいません、トイレ詰まっていて使えないんですけど・・・」

この店のトイレは男女兼用で便器は一つだけ。

それが詰まったとなれば営業中止ともなりうる一大事。




私は急いでできうる手段を用いて回復を試みたが、水は溢れるばかり。

客の苦情が聞こえる中、修理屋を呼ぶ余裕などありません。

そこへ森さんが来て、白いワイシャツを二の腕までまくり上げたかと思うと、汚物が逆流している便器の中に素手を突っ込んだのです。



詰まっていたトイレットペーパーの固まりは見事に取り除かれ、便器の機能は回復しました。

「これじゃあ、いい男台無しだな。でもよかったな」

屈託のない笑顔。







私は唖然としてしばらく声がでず、金槌で頭を殴られたような衝撃が走ったことを覚えています。

いくら急を要するといえ、そこまでできる人はいません。

けちなプライドを持つよりもっと大切なこと、わかっているようで気付かないこと、人生において大事なことを森さんと働いた2年間ですべて教わったような気がします。



そのコミュニケーションはいつも言葉ではありませんでした。

その後、森さんは田舎の事情があって佐賀の方に帰郷することになりました。

「オレ田舎に帰って海苔づくりするよ。有明海だ、九州の方に来る機会があったら連絡してくれ」



森さんが去った後、私も店をやめ他の仕事に就くことになりましたが、それまでのことが、いかに他の方面でも役立った計りしれません。

いつも信頼という二文字が残っていくのがわかりました。

もしかしてあの人は神様だったかもしれないと思うのでした。
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潮文社・『心に残るとっておきの話』第三集より



この5年後、筆者は仕事で長崎に行った機会に、ホーム上で森さんと再開した喜びを記しています。

「これオレが作った海苔だ。東京へ帰ったら食ってくれ、うまいぞ」

“夢をみているようでした。疲れは一気に飛び、同時に何にも替えがたい悦びと涙が込み上げてどうすることもできませんでした。”と結んでいます。



筆者は、すばらしい人に巡り会いました。

しかし、感じるところがなければ、「ただ、いい人だった」で終わってしまいます。

筆者もまた、すばらしい人です。



あなたは汚物の便器の中に手を突っ込めますか?

躊躇(ちゅうちょ)せずに出来ることではありません。

私なら出来そうにありません。



それが出来るから偉いというわけではありません。

こうした人はいざという時に、どんな時にも 真価を発揮するとわかるからすばらしいのです。

いつの時代でも、場所を問わず、砂浜の雲母(きらら)のように、キラリと光る人がいますね。



こうした人間になりたいと願っているのですが・・。道遠し、です。

この話は、上に立つ者にとって、いい教訓を与えてくれています。

人を動かすのは言葉ではなく、手本をしめすこと、信頼されることなのだと教えてくれています。



怒鳴っているばかりの上司ではたまりません。

旧帝国海軍・連合艦隊長官の山本五十六の語録の中に、「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」とある。

厳しい訓練で鍛え、優秀な人材が沢山いたであろう旧海軍の長の言葉である。



思うように動かないからと叱りつける指導では駄目ですね。



2013年11月19日火曜日

『1リットルの涙』



『1リットルの涙』という日記があります。

この日記の作者は木藤亜也(愛知県・豊橋)さんという女性の方で、脊髄小脳変性病という、体を動かす働きをする小脳の細胞が減退してゆく難病に見まわれ、高校に入学する頃から病状が現われ出し、病気と闘いながら通学します。

しかし、病勢は止まらず、途中で養護学校に転校を余儀なくされ、遂にはベッドで寝たきりの生活の中でこの日記を書き綴ったのです。

25歳で亡くなりました。



「神様、病気はどうして私を選んだの?」



友達との別れ、車椅子の生活、数々の苦難が襲いかかる中、日記を書き続けることだけが亜也さんの生きる支えだった。

「たとえどんな小さく弱い力でも私は誰かの役に立ちたい」



『1リットルの涙』は、最期まで前向きに生き抜いた亜也さんの言葉が綴られた感動のロングセラーです。

映画化、テレビドラマ化されていますので、ご存知の方も多いかと思います。

彼女が在命中に出版され、大きな反響を呼びました。





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生きたいのです。

動けん、お金ももうけれん、人の役に立つこともできん。

でも生きていたいんです。

わかってほしいんです。



お母さん、わたしのような醜い者が、この世に生きていてもよいのでしょうか。

わたしの中の、キラッと光るものをお母さんなら、きっと見つけてくれると思います。



若さがない、張りがない、生きがいがない、目標がない……

あるのは衰えていく体だけだ。

何で生きてなきゃあならんかと思う。反面、生きたいと思う。



我慢すれば、すむことでしょうか。

一年前は立っていたのです。話もできたし、笑うこともできたのです。

それなのに、歯ぎしりしても、まゆをしかめてふんばっても、もう歩けないのです。

涙をこらえて

「お母さん、もう歩けない。ものにつかまっても、立つことができなくなりました」



後十年したら……、考えるのがとてもこわい。

でも今を懸命に生きるしかないのだ。

生きていくことだけで、精いっぱいのわたし。
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いま、彼女の残した日記や生きた証を知る事で、大勢の人たちが生きる事の大切さを再認識させられ、そして生きる勇気をもらっています。

彼女の「誰かの役に立ちたい」と言う思いは、いま尚、生き続けています。

1リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記 (幻冬舎文庫)


『お父さん、お母さん 愛してる』



子供を先に亡くしてしまう親の心情は察するに余るものがあり、特にそれが小さな子供だと、他人でも涙を誘います。

エレナちゃんは5歳のときにガンの宣告を受け、6歳でその短い生涯を終えました。

しかし彼女が亡くなったあとで、家族は彼女が残した小さな手紙を見つけました。



それは家族に向けて、エレナちゃんが愛情を込めて書いたメモだったのです。

それは1通だけではなく、あとからあとから何百通も、そして2年経っても、家中から出てくるそうです。

エレナちゃんはたった5歳のときに脳ガンと診断されました。



医者には余命135日と宣告され、そこから激しい病気との闘いが始まります。

心を痛めた両親は残された毎日が彼女にとって特別になるように、彼女とその妹のグレイシーちゃん4歳のために出来るだけのことをすることにしました。

彼女を守りたい一心で、死ぬかもしれないことは一切伏せていたそうです。



ガンに集中するのではなく、家族が一緒にいること、エレナちゃんがしたいことに集中したのです。







エレナちゃんは病気と闘っていた9ヶ月の間、家族の知らない間にメモを書いては家中に隠しておきました。

何百通と言う彼女の愛情のこもったメモが戸棚や引き出し、かばんや衣服の中から彼女が亡くなったあとで出てきたのです。

最初のメモはエレナちゃんが亡くなって数日後に引き出しの中から見つかりました。



さらにその後、いろいろな場所から無数の手紙が出てきたのです。

クリスマスの飾りが入っている袋からも出てきたそうです。



本が大好きで、大きくなったら先生になりたいと言っていたエレナちゃんのことを、その年齢の子よりいろいろ理解していたと両親は述べています。

「死を悟っていたとは思いたくはないが、もしかしたら知っていたのではないか」と父親のキースさんは語っています。

1ヶ月の放射線治療のあと彼女の症状は急激に悪化し、話せなくなり、体も麻痺していきました。



そして255日後、その小さな体は息を引き取ったのです。

「パパ、ママ、グレイシー大好き」など、数百通におよぶ絵が添えられた愛情いっぱいのメッセージは両親と妹、祖父母に向けられたもので、叔母が飼っているお気に入りの犬に向けたものまであったそうです。

両親は最後のメモを見つけたくないばかりに、1通を未開封のまま大事に残していると言います。



闘病生活の間の両親の大変さは聞くに堪えず、彼らがエレナちゃんのメモを見つけたときの心情は察するに余るものがあります。

ご冥福をお祈りします。



『花嫁の電話』



加奈子ちゃんが近所に引っ越してきたのは、まだ小学校三年生のときでした。

ときどきわが家に電話を借りに来るのですが、いつも両親ではなく加奈子ちゃんが来るので、おかしいなと思っていたのですが、しばらくしてその訳がわかりました。

加奈子ちゃんのご両親は、耳が聞こえない聴覚障がいがある方で、お父さんは言葉を発することが出来ません。



親御さんが書いたメモを見ながら、一生懸命に用件を伝える加奈子ちゃんの姿を見ていると、なんだか胸が熱くなる思いでした。

今なら携帯電話のメールがありますが、その時代を生きた聴覚障がいを持つ皆さんは、さぞ大変だったろうと思います。

加奈子ちゃんの親孝行ぶりに感動して、我が家の電話にファックス機能をつけたのは、それから間もなくのことでした。



しかし、当初は明るい笑顔の、とてもかわいい少女だったのに、ご両親のことで、近所の子供達にいじめられ、次第に黙りっ子になっていきました。

そんな加奈子ちゃんも中学生になる頃、父親の仕事の都合で引っ越していきました。



それから十年余りの歳月が流れ、加奈子ちゃんが加奈子さんになり、めでたく結婚することになりました。

その加奈子さんが、
「おじさんとの約束を果たすことができました。ありがとうございます」

と頭を下げながら、わざわざ、招待状を届けに来てくれました。



私は覚えていなかったのですが、
「加奈子ちゃんは、きっといいお嫁さんになれるよ。だから負けずに頑張ってネ」

と、小学生の加奈子ちゃんを励ましたことがあったらしいのです。

そのとき「ユビキリゲンマン」をしたのでどうしても結婚式に出て欲しいというのです。



「電話でもよかったのに」
と私が言うと、

「電話では迷惑ばかりかけましたから」
と加奈子さんが微笑みました。

その披露宴でのことです。新郎の父親の謝辞を、花嫁の加奈子さんが手話で通訳するという、温かな趣向が凝らされました。



その挨拶と手話は、ゆっくりゆっくり、お互いの呼吸を合わせながら、心をひとつにして進みました。







「花嫁加奈子さんのご両親は耳が聞こえません。お父さんは言葉も話せませんが、こんなにすばらしい花嫁さんを育てられました。障がいをお持ちのご両親が、加奈子さんを産み育てられることは、並大抵の苦労ではなかったろうと深い感銘を覚えます。嫁にいただく親として深く感謝しています。加奈子さんのご両親は“私達がこんな身体であることが申し訳なくてすみません”と申されますが、私は若い二人の親として、今ここに同じ立場に立たせていただくことを、最高の誇りに思います」



新郎の父親の挨拶は、深く心に沁みる、感動と感激に満ちたものでした。

その挨拶を、涙も拭かずに手話を続けた加奈子さんの姿こそ、ご両親への最高の親子孝行だったのではないでしょうか。

花嫁の両親に届けとばかりに鳴り響く、大きな大きな拍手の波が、いつまでも疲労宴会場に打ち寄せました。



その翌日。新婚旅行先の加奈子さんから電話が入りました。

「他人様の前で絶対に涙を見せないことが、我が家の約束ごとでした。ですから、両親の涙を見たのは初めてでした」

という加奈子さんの言葉を聞いて、再び胸がキュンと熱くなりました。




追記:HP・「NTT西日本」コミュニケーション大賞受賞作品より


私の知っている人も、御両親が耳の障害を持っていらっしゃって、立派な方がいます。

口でのコミュニケーションの大切さは言うまでもありませんが、子供の躾とはいったい何だろう?と思いますね。

口うるさく世話ばかり焼いている親がいますが、子はいつものことだと無視です。



大切なことは親の生き様、生きる姿勢だと思います。

一挙一動です。何も言わなくても、子は見ていて真似るものです。

もちろん、私が立派な親というものではなく、反省の弁でもあります。


2013年11月13日水曜日

『大好きなもの大切に/大リーガー-松井秀喜』



「いじめられてる君へ」



君は、無理して立ち向かわなくていいんだよ。

学校やクラスにいても楽しくない。

仲間にうまく入れない。



それなら、それで、別にいいんじゃないかな。

だれかが作った世界に君が入らなければいけない、ということはないんだよ。



それより、君には、居心地のいい場所で、自分の好きなことに夢中になってほしい。

何かに没頭することによって、いやなことが気にならないことって、あると思うんだ。

逃げるんじゃない。



自分から好きな場所を選ぶんだ。

その中で同じ夢を持った友だちに出会うこともあるだろう。

新しい仲間ができるかもしれない。







ぼくは、小さいこと、体が大きいいだけでなく、太っていた。

それを悪くいう友だちがいたかもしれない。

ぼくはまったく気にならないタイプだからコンプレックスを感じることもなく、ただ大好きな野球に没頭していた。



そのうちに、自然と体も絞れてきた。

もちろんいい仲間とも、たくさんめぐり合うことができた。

だから君にも大好きなことを見つけて、自分の夢を持ってほしいんだ。



スポーツが好きな人もいれば、音楽が好きな人もいるだろう。

何かを書いたり、作ったり。

見ることでもいいんだ。

大好きなものに出会えたら、それを大切にしてほしい。



君をいじめている人がいるとしたら、その人もきっとつらい気持ちでいると思う。

だって、人をいじめることが夢なんて人はいないはずでしょう。



いじめは夢の遠回りなんだ。

そのひとにも、自分の夢を早く見つけて欲しいと言いたい。

後悔するような時間は、短い方がいいからね。

だから、いま君が立ち向かうことはないんだ。



2013年11月12日火曜日

『天国から届いた旦那からの手紙』



彼女の旦那さんは辛く激しい闘病生活の末、その短い生涯を閉じました。それから五年後、彼女のもとへと一通の手紙が届けられました。それは先立った愛しい旦那からの手紙でした。


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旦那が激しい闘病生活の末、若くして亡くなって五年後、こんな手紙が届きました。

どうやら死期が迫ったころ、未来のわたしに向けて書いたものみたいです。



以下全文



Dear 未来の○○

元気ですか?大好きな仕事はうまくいってますか?きっと○○だもん、今でも凄い人気者なんだろうなあ。嫉妬しちゃうよ。

早速だけど、俺はもう長くないみたい。仕事柄、なんとなく自分の体のことはわかるんだ。薬もだいぶ変わったしね。

だから、○○に最後の手紙を書くことにしました。

もう今頃新しいかっこいい旦那さんが出来てるかな? (笑)

いいんだよ、俺に遠慮しないで幸せになってよ。○○は誰かを幸せにできる才能を持ってる。その才能を持った責任を負わなきゃいけないんだ。

○○が幸せになるところ、きちんと見守ってるからね。俺は大丈夫。向こうで可愛い女の子見つけて恋するもんね! (笑)

そして○○は沢山子供を作ってステキな家庭を作るの。○○の子供だもん、きっとかっこいいんだろうなあ~

俺生まれ変われたら○○の子供になっちゃおうかな (笑)

生まれ変わりの順番待ちがあったら割り込んじゃうもんね!おやじ発想だな。

でもね、一つだけお願いがあります。







どうか俺のことを忘れないで。どんなに幸せになっても、一年に何回かでいいから思い出して。

俺はもうお父さんもお母さんもいないから、、○○が忘れたらもうこの世界に俺はいなくなっちゃう。それだけが怖いんだ。

何回かというのはね、

付き合い始めた日、幕張のレストランに海。

一緒に行った夏の北海道、あの時買ったペアリングはずっと今でもつけてるよ。お棺にいれないでね、○○が持ってて。

結婚記念日は○○酔いつぶれてたし、いいや (笑)

そして俺の命日。多分○○のことを思いながら幸せに眠るんだろな。

この三つが俺の思い出ランキングトップです!だから年三回でいいから思い出してね。お願いね。

○○が思い出してくれるとき、きっと俺はその瞬間だけこの世界に生き返れるんだ。

最後までわがままだね (笑) ごめんなさい。

未来に向けて書くつもりが、なんかよくわかんなくなっちゃった。だって○○の未来は輝いてて、眩しくて、全然見えませんよ!

さて、レントゲンに呼ばれたのでこれで終わりにします。時間かけて書くと長くなりそうなので、思いつきで書いたこの手紙で一発終了。

○○、今までありがとう。悲しい思いをしてしまったらごめんなさい。

おまえと過ごした俺の人生、おまえと作った俺の人生。幸せ過ぎてお腹いっぱいです。もう悔いはないよ。

○○の幸せをずっとずっと見守ってます。

未来の○○の笑顔を思いながら

△△より

ps.ご飯はちゃんと食べるんだよ



最後まで注文ばっかだね全く

わたしはまだ一人だよ

でも幸せだ この手紙をみて改めて実感した

わたし頑張るから、ずっと見ていてほしい

ありがとう




『最後のおべんとう』



私が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った男性の方がいました。

余命3か月と診断され、
彼は諏訪中央病院の
緩和ケア病棟にやってきました。

ある日、病室のベランダで
お茶を飲みながら話していると、
彼がこう言ったんです。



「先生、助からないのはもう分かっています。
だけど、少しだけ長生きをさせてください」

彼はその時、42歳ですからね。

そりゃそうだろうなと
思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいました。



すると彼が、

「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
 卒業式を父親として見てあげたい」

と言うんです。

9月のことでした。

彼はあと3か月、
12月くらいまでしか生きられない。



でも私は春まで生きて
子供の卒業式を見てあげたい、と。

子供のためにという思いが
何かを変えたんだと思います。

奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。



こうしたことは
科学的にも立証されていて、

例えば希望を持って
生きている人のほうが、

がんと闘ってくれる
ナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。



おそらく彼の場合も、

希望が体の中にある
見えない3つのシステム、
内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。

さらに不思議なことが起きました。



彼には2人のお子さんがいます。

上の子が高校3年で、下の子が高校2年。

せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
私たちは思っていました。







でも彼は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。

そして、1か月ほどして亡くなりました。

彼が亡くなった後、
娘さんが私のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。



私たち医師は、
子供のために生きたいと言っている
彼の気持ちを大事にしようと思い、

彼の体調が少しよくなると
外出許可を出していました。

「父は家に帰ってくるたびに、
 私たちにお弁当を作ってくれました」

と娘さんは言いました。

彼の家は母親が頑張って働いて居たので、
せめてお弁当だけでも、と彼が作っていたのですね。



そして、彼が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態でした。

病院の皆が引き留めたんだけど、
どうしても行きたいと。

そこで私は、

「じゃあ家に布団を敷いて、
 家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」

と言って送り出しました。



ところがその日、
彼は家で台所に立ちました。

立てるはずのない者が最後の力を
振り絞ってお弁当を作るんですよ。

その時のことを娘さんは
このように話してくれました。



「お父さんが最後に作ってくれた
 お弁当はおむすびでした。

 そのおむすびを持って、
 学校に行きました。

 久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。

 昼の時間になって、
 お弁当を広げて食べようと思ったら、
 切なくて、切なくて、
 なかなか手に取ることができませんでした」



お父さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。

でも、命は長さじゃないんですね。

お父さんはお父さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。



『さかなクンのお話』



いじめられている君へ
広い海へ出てみよう



中一のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、
だれも口をきかなくなったときがありました。

いばっていた先輩が3年になったとたん、
無視されてたこともありました。
突然のことで、わけわかりませんでした。

でも、さかなの世界と似ていました。



たとえばメジナは海の中で
仲良く群れて泳いでいます。

せまい水槽に一緒に入れたら、
1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。

けがしてかわいそうで、
そのさかなを別の水槽に入れました。



すると、残ったメジナは
別の1匹をいじめ始めました。
助け出しても、
また次のいじめられっ子が出てきます。

いじめっ子を水槽から出しても
新たないじめっ子があらわれます。







広い海の中ならこんなことはないのに、
小さな世界に閉じこめると、
なぜかいじめが始まるのです。

同じ場所にすみ、
同じエサを食べる、
同じ種類同士です。

中学時代のいじめも、
小さな部活動でおきました。



ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」
ときけませんでした。

でも、仲間はずれにされた子と、
よくさかなつりに行きました。

学校から離れて、
海岸で一緒に糸をたれているだけで、
その子はほっとした
表情になっていました。



話を聞いてあげたり、
励ましたりできなかったけど、
誰かが隣にいるだけで
安心できたのかもしれません。

ぼくは、変わりものですが、
大自然のなか、
さかなに夢中になっていたら
いやなことも忘れます。

大切な友達ができる時期、
小さなカゴの中で
だれかをいじめたり、
悩んだりしても
楽しい思い出は残りません。



外には楽しいことが
たくさんあるのに
もったいないですよ。

広い空の下、
広い海へ出てみましょう。



2013年11月11日月曜日

『ガンが治るくすり』



クリスマスの数日前、6歳の息子さんが欲しいものをサンタへの手紙に記していました。ご両親は「何が欲しいのかなぁ」と手紙を開けます。するとその手紙には切ない息子の祈りが詰まっていました。


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6歳の息子がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと妻とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてありました。



「サンタさんへ おかあさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」



妻と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃいました。



昨日の夜、息子が眠ったあと、妻は息子が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておきました。



朝、息子が起きるとガッチャマンの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げていました。







早速朝食を食べる妻の元にどたばたと行って



「ねえ! サンタさんからお母さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」

といって、妻に薬を飲ませました。



妻が「体の調子が、だんだんと良くなってきたみたい」と言うと息子が、



「ああ! 良かった~。これでお母さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」

……というと



妻がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めました。



私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えました。



妻は息子には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしていました。

その後、息子が近所の子に家にガッチャマンの人形を持って遊びに行った後、妻が

「来年はあなたがサンタさんだね……。しっかり頼むね」と言ったので、

つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けてしまいました。



お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざりました。




『父の唯一の我侭』



就職活動で大変だった大学三年のある日、お父さんから唐突に沖縄旅行に誘われたのですが、「今は大事な時期だから」と断ってしまいます。が、その事を後日に後悔することに…。


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「沖縄に行かないか?」

いきなり父が電話で聞いてきました。



当時、大学三年生で就活で大変な頃でした。
「忙しいから駄目」と言ったのですが父はなかなか諦めません。



「どうしても駄目なのか?」

「今大事な時期だから。就職決まったらね」

「そうか・・・」



父は残念そうに電話を切りました。急になんだろうと思ったが気にしませんでした。







それから半年後に父が死にました。癌でした。医者からは余命半年と言われてたらしいです。

医者や親戚には娘が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしいです。

父母私と三人家族で中学の頃、母が交通事故で死に、大変だったのに大学まで行かせてくれた父。

沖縄に行きたいというのは今まで私のためだけに生きてきた父の最初で最後のワガママでした。

叔父から父が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡されました。

パラパラとめくると写真が挟んであるページがありました。

絵日記には「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。

ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」



・・・というような事が書いてありました。



すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来ました。

私は大きくなったらお金を貯めて父を沖縄に連れていってあげる。というようなことをこの旅行の後、言ったと思います。

父はそれをずっと覚えていたのです。そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていました。

私は父が電話をしてきた時、どうして父の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。



もう恩返しする事が出来ない・・・

涙がぶわっと溢れてきて止められませんでした。




『学校に行きたい』



少女は病気の彼をうらやましく思っていました。理由はすぐに学校を早退できるからです。でも、彼の連絡帳を何気なく覘いたその時、少女は己の浅はかさを知ったのです。


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私が小学校5年生のとき、寝たきりで滅多に学校に来なかった男の子と同じクラスになりました。

その子、たまに学校に来たと思ったらすぐに早退するし、最初は



「あの子だけズルイなぁ・・・。」



なんて思ってました。

私の家、その子の家から結構近かったから私が連絡帳を届ける事になりました。



男の子のお母さんから連絡帳を貰って、先生に届けて、またお母さんに渡して・・・。

それの繰り返し。



「なんで私がこんな面倒臭い事しなくちゃいけないんだ!」

って、一人でブーたれてたのを良く覚えています。



そんなある日、私何となくその子の連絡帳の中を覗いてみました。

ただの興味本位だったんだけど。

連絡帳にはその男の子のものらしい豪快な字で、ページ一杯にこう綴られてました。



『今日もずっと家で寝てた。早く学校に行きたい。今日は窓際から男共の笑い声が聞こえてきた。学校に行けば、俺も輪に入れるのかな・・・。』



ショックでした。

学校行かないのって楽な事だと思ってたから。

ハンデがある分、ひいき目にされて羨ましいって思ってたから。







でも彼の文章には学校に行けない事の辛さ、普通にみんなと遊びたいって気持ちに溢れてて、なんだか私、普通に毎日学校に通ってんのが申し訳なくなって。

だから、連絡帳にこっそり書き込みました。



「いつでも、待ってるよ。体が良くなったら遊ぼうね!」

って。



でも次の日の朝、その子の家に行ったらその子のお母さんに

「もう、連絡帳は届けなくていいの。」

って言われました。

あまりにも突然でした。

私はその頃子供で、頭もあまり良くなかったのだけれど、その子のお母さんの言ってる意味は伝わってきました。



「この子は天国に行ったんだ。もう一緒に遊ぶ事は出来ないんだ・・・。」



そんな事考えたら涙が溢れて、止まらなくって・・・。

ずうっと泣き続けてた私に、その子のお母さんは連絡帳をくれました。

せめてあなただけは、学校にも行けなかったあの子を忘れないで欲しいって。



そんな私ももうすぐ30になろうとしています。

あの時の連絡帳は、引き出し下段の奥底にずっとしまったきりです。

就職したり、結婚したり、子供が出来たり・・・。

今まで、本当に色んな事がありました。

時には泣きたい事、辛い事の連続で、いっそ自殺しちゃおうかなんて思った事もありました。

けど、そんな時はいつも引き出しを開けて、男の子の連絡帳を開きます。

そして、彼が亡くなる直前に書かれた文章を読み返します。



『ありがとう、いつかきっと、遊ぼうね。』