2013年10月10日木曜日

『アルコールの匂いがする彼の日記』



幼馴染の彼は病気と戦っていました。
彼の入院費を稼ぐために働く両親の代わりに、彼女は必死で彼を支え、彼の孤独な病院生活に色を取り戻そうと頑張りました。


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わたしには幼馴染の男の子がいました。
小学校・中学校まで病気の為殆んど普通の学校に行けず、いつも院内学級で1人でいるせいか、人付き合いが苦手でわたし以外友達は居ませんでした。
彼の体調がよく外泊許可中は、いつもわたしが普通の学校へ送り迎いをして、彼の体調の変化に対応するようになっていました。



普通は親がやることですが、家が隣同士で、母親の職場が同じで家族ぐるみの付き合いをしていたので、彼の母親はわたしに絶対的な信頼を寄せていたんだと思います。(彼の入院費を稼ぐ為に働いて、彼自身をおろそかにしなければならないと言う、矛盾した悲しい現実もありました)。



わたしはそんな信頼に答えるように幼いながらの正義感を持っていて、学校で茶化される事がありましたが、それは自分に与えられた責任が果たせていると言う確認でしかありませんでした。



彼は人工透析以外普通の学生生活を送ろうと、懸命で体調さえよければ雨の日や雪が降るような寒い時でも、中学生とは思えない華奢な肩を震わせて学校に行きました。



そんな彼のがんばりで、高校進学の出席日数は普通の学校と院内学級を合わせて何とか間に合って (実際は足りなかったが意欲有りで認められた) わたしが合格した高校の2次募集を受験して、補欠ながら何とか合格して、いつもふさぎがちな彼の表情は輝いていていました。
これは高校合格だけでは無く、 体調が安定してきて外泊許可が長くなったのもあると思います。
彼にとって今全てが動き始めました。



彼の高校合格の日、両家合同でちょっとした合格パーティーが行われて、彼の母親がわたしの手を泣きながら握って何度も何度もお礼をして、わたしは苦笑いするしかなく彼も恥ずかしそうに笑っていました。



そこまで感謝されているのは嬉しかったですが微妙な違和感がありました。



彼が寝付いた後話を聞いたら、彼の病気は内臓、とりわけ腎臓が殆んど機能しておらず、医者からは10歳まで生きられないと言われていたと言うのです。
腎臓に障害があるのは、話や人工透析中の様子を見てきたから既に知っていたが寿命の事は知りませんでした。



入学までの約1ヶ月間毎日のように2人で過ごして、ごく普通の生活 ごく普通の時間を過ごしていて、いっしょにテレビを見ていても彼は幸せそうでした。
考えてみればこんな時間の過ごし方は数ヶ月前ではとても考えられない、彼にとっては病室で1人で過ごすのが普通なのですから。



それに気が付いた日わたしは泣きました。
 彼にとっての日常が病院で1人きりで非日常が家、しかも、家に帰っても入院費を稼ぐ為に家族は誰も居ないのです。



この頃からわたしは責任から義務へ彼を絶対に守ると決意したと思います。



しかしそんな決意も脆くも崩れ去りました。
いつも通りいっしょにテレビを見てトランプで遊んで、お昼に病院から宅配されたごはんを食べていたら、彼は嘔吐し気絶してしまったのです。
救急車が来るまで洋服や口の周りを拭いて、ソファーに移動させようと抱きかかえましたが、驚愕しました。
軽い軽すぎる、まるで内蔵の無い人間を抱きかかえているようでした。
結局彼はそのまま入院し、高校は休学しました。



彼の日常に戻っていきます。



今までの入院中の面会は4日に1回程度で人工透析のある日は行きませんでした。
でも、あのころは毎日のように彼の病室を訪ねて、人工透析後の虚脱感で彼が寝ていても、面会時間いっぱいまで本を読んだり勉強をして過ごしていました。
透析が無い日は学校の話・友達の話・テレビの話どうでもいい話を、面会時間ぎりぎりまで話して、本が欲しいと言えば直ぐ買ってきて、大きめの鏡が欲しいと言えば1番高い物を持って行き、彼の日常が無邪気な笑顔が充実するように努めました。



そんなある日、日曜日に面会に行こうとしたら 彼の両親からいっしょに行こうと電話があり、彼の要望のクシを購入して行きました。
クシの入った可愛らしい袋はちょっと恥ずかしかったので、彼のお母さんに持ってもらい病院に行きました。
彼の両親は担当医に挨拶をすると言い、わたしは先に彼の病室に歩き出しました。
しかし、クシの事を思い出し彼の両親が入っていきました。
部屋に行き様子を伺おうと少し開いているドアから覗き込むと 上気した感じで担当医と話していて、その内容が聞き取れました。



「あと、半年の命です」



中に居た看護婦さんが泣き声に気が付いて、わたしを中に入れて椅子に座らせてくれました。
担当医から告げられる言葉は全てが虚しく、何を喋っていたのか余り覚えていません。


覚えているのは
「半年の命、先天性腎機能障害・移植は合う人が居ない。人工透析の副作用・入院中の吐血。人間として迎えさせる」
担当医の話が終わり彼の母はショックが大きく、とても今日は会えないと言い、クシの入った袋を渡して帰っていきました。



わたしも今自分の顔がどんな表情をしているか分かるから、 彼に絶対悟られたくないから、数時間気持ちを落ち着けてから彼の病室に向かった。



病室に入ると彼は無邪気な満面の笑みで迎えてくれて、 クシに気が付くと更に笑顔を輝かせていました。
室内は夕焼けのわたしンジで溢れていて、わたしは死をイメージしてしまい目が熱くなるのを感じて、クシを渡し棚の上にある鏡を渡して窓際に移動して顔を背けながら話しました。



流石にずっと背を向けて喋ると悟られそうで無理して振り向くと、彼はクシで髪形を7・3にしたり9・1にしたり、髪で遊ぶのに夢中で少しほっとしました。
彼の枕元を見ると参考書が置いてあり、色々書き込みがされていて、聞くと「時間いっぱいあるし、復学したらテストでトップを取るんだ」と照れくさそうに笑っていました。



それから少し喋ると直ぐに面会時間になり、帰りました。



夕焼けが町を包む、彼の黄昏





「時間いっぱいあるし・・・」



家に帰ると彼の両親がわたしの両親に病状を話していました。
彼の両親はとても落ち着いていて、わたしの両親が泣きじゃくっていて逆に励まされていました。
わたしはムカついて冷蔵庫から牛乳を取り出し、一気に飲み干してそのまま寝ました。



次の日から彼の母は勤務日数を減らして1日中病院に居る日が多くなり、わたしがムカついていたことは馬鹿だと思いました。
元々医者から10歳までしか生きられないと聞かされていた彼の両親は、とうの昔に覚悟を決めていたんだろうと。



ですが、両親が見舞いに来る日が多すぎて、流石に悟られてしまうと担当医から注意を受けていました。
今日も面会に行くと笑顔で迎えてくれました。学校の話・テレビの話・仕入れた面白い話をひと通り話して、久しぶりに勉強を教えようと大量の本がある棚から彼のノートと参考書を取り出して、何処まで進めたのかノートを見ました。



しかしそこには勉強の跡は無く、日記が書かれていました。
その後直ぐに彼に取り上げられて、内容は余り覚えていませんが1日分の日記が1ページ程使って書かれていました。



「まだ、見ちゃ駄目」



日記を書くと考えがまとまって、気分がいいらしいのです。
その事を褒めてあげていると、急に彼の顔が苦痛に歪んで胸を押さえました。
何かまずい事を言ったのかと思いましたが、それは違い、急いでナースコールを押して看護婦さんを呼びました。
直ぐに安定しましたが看護婦さんに呼ばれ別室で話を聞いた。
腎臓障害が心臓に影響しはじめて不整脈が起こりやすい事、もう時間が無い事 人間として最後を迎えさせる事。



わたしは忘れてはいなかったが、あえて考えないようにしていたのかもしれないです。彼の時間が迫っていることを。



その後面会謝絶になり、2日程逢えなませんでしたが直ぐに逢えるようになりました。



わたしはいつも通り毎日学校帰りに面会に行きました。
彼の無邪気な笑顔を作る為に、ノックをすると返事があり、今日も大丈夫だ。
ドアを開けると黄昏に染まった病室でわたしに背を向けて、夕焼けに染まった町を眺めていました。
その横に静かに座りわたしも黙って見ていました、窓に反射している彼の顔を、彼もそれに気が付いたのか照れくさそうに笑って話し出した。



「いつも来てくれてありがとう。もう大丈夫だから」



ひっかかる事がありましたが、気にするなと言って、窓に反射している彼の顔を見つめました。
ふと、部屋の中を見渡すと本棚にあった大量の本が、数冊を残して空っぽになっていました。
聞くと、片付ける時、お母さんが可愛そうだと笑って言いました。
彼はいつもの無邪気な笑顔では無く、悟った様なやさしい笑顔でした。



不意に目が熱くなり、トイレに行って来ると言い訳してその場を離れようとすると、彼の母親と入れ違いになり、わたしは顔を隠すように軽く会釈をして出て行きました。
病室から彼のビックリしたような声が聞こえました。
どうやら外泊許可が下りたようで、どんな顔で喜んでいるのか見たかったのですが、既に逢えるような顔ではありませんでした。



・日記を書くと考えがまとまって、気分がいいらしい。
・「いつも来てくれてありがとう。もう大丈夫だから」
・整理された本棚 悟った様なやさしい笑顔。



彼は既に知っている、もう時間が無いことを、、。



最後の外泊許可で帰ってきた日は両家で食事会が開かれました。
食事制限が厳しいながらも母親たちが、がんばって作った料理が食卓に並びます。
誰かがちょっとでも予感させる事を言えば、その場で食卓は凍りつきます。
そんな雰囲気で、会話は交わされていました。


普通の話でも大げさに笑い、リアクションも大げさでした。
わたしも嫌いではない胡麻和えを嫌いと言い、話を盛り上げようとがんばりました。
彼を見ると、両親たちに向けて、また無邪気な笑顔で笑っていました。
両親たちとわたしに向ける笑顔を使い分けて。



問題なく食事会は終わり、帰ろうとすると彼に呼び止められお礼を言われました。


「付き合ってくれてありがとう。」


意味は分かっています。



7月に余命を宣告されて、今は12月。
最後の外泊許可を貰った彼に会いに行く。



病室で見る笑顔より輝いていたのがすぐにわかりました。
外泊許可を貰っても、免疫力の落ちた彼を人ごみに連れて行く訳にはいけないので、近くの森林公園に行くことが多かったです。



森林公園と言っても中にはちょっとした博物館や美術館があるのです。
16歳の普通の男の子なら退屈で悪態をつかれそうですが、何も知らない彼はニコニコして楽しそうにしていました。
今日の彼はよく喋りました。
幼稚園の頃の話・2人で行った映画の話・体調の安定していた頃の通学中の話。
わたしは何となく覚えていましたが、彼は細かく詳細に覚えていて、驚かせる。
不意に黙った彼を見ると、 白すぎる頬を赤らめ目に涙を貯めて、わたしに感情を爆発させました。



「まだ死にたくない」



わたしはたまらずゾッとするほど華奢な彼を抱きしめました。
何て言えばいいのか、馬鹿なわたしには分からずただ抱きしめてキスをしました。



「ありがとう」



長期外泊許可が終わった今日、彼は帰っていきます。
その後、彼の体調は緊張の糸が切れたように日に日に状態が悪くなる一方でした。



今彼の覚醒時間は短い、あらゆる激痛が彼を襲い、それを和らげる為にモルヒネが使われているのです。
ちょっとした風邪でも肺炎に進行し後が無い、 感染症・合併症・言葉で表すのは簡単ですがが、現実は想像を絶します。



念入りに消毒して黄昏さえない彼の無菌室に行きます。
彼の顔は浮腫んでやっと高校生らしい感じになっていました。
荒い息使いで額にうっすら汗が出ていて、透明なビニールのカーテンを開けて拭いてあげます。
不意に彼は目を開け笑顔にならない表情を見せまた眠りにつきました。



その日の夜、病院から電話がありました。
彼が移された病室には、今まで見たことのない親戚と無数の機械、枕元には彼の両親が立っていました。
彼は虚ろな目で来てくれた人にお礼をしてました。
モニターを見ていた医者に促された彼の両親は、わたしを枕元に手招きしました。
彼の手を握って話す、痛みは?苦しくない?寒くない?ゆっくり話しました。
彼は後で日記を見てねと言って、日記を出して穏やかな笑顔を見せました。



「俺、がんばったよな?」

「うん」



彼は早朝に亡くなりました。



アルコールのニオイがする彼の日記には色々な事が書いてありました。
わたしが話した学校の話・友達の話・テレビの話どうでもいい話。
まるで、書きもれるのを恐れている様に細かく書いてありました。
その時のわたしの表情といったらもう、、、。



2ページ程の空白あと、彼の感情がぶつけられていました。
文字にならない文字で吐血の事・胸の痛みの事、既に文字ではなかったが彼の気持ちが分かる様なきがします。
夜中の病室で1人、孤独と不安と戦っていたんでしょう。



その後何事も無かったように最後の外泊許可の日々まで書かれていました。
そして最後のページには1文だけ書かれて終わっていました。



「今日キスをした、もう怖くない・・・愛してます」




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